Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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【集まルーズ】file01:コミュニティを育む場


今年の3月の終わりに ひょんなことから「集まルーズ」という場が生まれました。

「日本の山や森を生かし 未来へつなぐこと」に関心のある者たちが、森や木材をテーマにした ゆくゆくは行動につなげていけるようなものとして始めてみることにした(はずの)その集まりの第1回目の訪問先は、湘南地域でフランス料理店を経営している方(*以下「Aさん」)でした。

 

「集まルーズ」が誕生するおしゃべりの中で、私が 森や山についての話に 国産ワインや自然栽培のたとえを持ち込みながら話していたからでしょうか、別れ際には なぜか “そうなっていた” のでした。今回訪ねたAさんのお店では 国産ワインや自然栽培の農産物を積極的に扱っているのです。

 

私個人としては 自然に即した農や食に関心を持って はや四半世紀。それとつながる関心事のひとつに 日本の森林や住まいがあるものですから なんの違和感もなかったのですが、他のメンバーはいったいどうなのだろうと 内心ちょっぴり気になっていました。が、蓋を開けてみれば 食と森 食と住の素晴らしいコラボレーションは メンバーそれぞれの中で起こったようで、何よりも 夢に向かって進むAさんの姿に それぞれが刺激を受け励まされたことが 実は一番の収穫だったかもしれません。(*あくまで個人的な見解です)

 

 

現在2軒のお店を経営しているAさん。

それぞれのコンセプトが「ma maison(我が家)」と「ユーロ カフェ&バル」と、どちらも 地元の人たちが気軽に集まれる“コミュニティ”を目指すものです。

 

     お客様はみな家族、

     安全で健康的に美味しく食べられる料理をお届けします。

     お客様や生産者、地域や環境への感謝の気持ちを忘れずに、

     「ありがとう!」一番店を目指しています。

 

というのが 今回訪ねたお店のコンセプト。

そこで食事をしながらお話を伺ったのですが、シェフは ベジタリアンのメンバーへの細やかな配慮もして下さり、聞けば アレルギーやベジタリアンの方への対応は日常的に行なわれているとのこと。私が菜食だった数年前はもとより 現在でもまだまだそういう対応をして下さるお店が少ない中(しかもフレンチレストランで) 人に寄り添うサービスをする という本道を進んでおられるように観じられます。

 

と ここまで書いてAさんの名刺を見てみると、クレド(Credo:ラテン語で「志」「信条」「約束」の意味)として 次のことが記されていました。

 

     我々はmade in 湘南(地産地消)にこだわります

     我々はお客様第一主義に徹します

     我々は地域と共に歩みます

     我々は湘南中にHappyを届けます

     我々は食文化の啓蒙と食育を推進します

 

 

調理師学校を出たAさんは 初めて働いたレストランで 初年度にフロア・サービスをしていたときに(*そのお店では料理人として入った人も まずフロアの仕事を学ぶのだそうです) レストランのサービスやマネージメントに興味を持ち 性格的にも向いていると感じて、それ以降 その道を歩き始めます。最初のお店で 世界の一流のものに触れ、その後勤めたオーベルージュで 現在のAさんの夢の輪郭がかたちづくられていったようです。

 

オーベルージュの先駆けであるその場を始められたシェフが 地元の一軒の農家とつながりをつくり そこから その農家さんが変わり そして その地域の農が変わっていくさまは、Aさんの目に あるひとつの理想 あるいは ひとつの素晴らしい道筋として 映ったのだと思います。

レストランという場が コミュニティをはぐくむ一つの核となることができる---

その実例を体験されたのです。

私がAさんのお店を知ったのは その地域で自然栽培をやっている農家さんがきっかけですし、Aさんと直接会ったのは お店で扱う食材をつくっている農家さんたちを招いた「ファーマーズ・ディナー」でした。すぐれた国産ワインの取り揃えも豊富で、実際にワイナリーを訪ね 作り手さんを訪ねている姿が お話から観じられます。

さらに、Aさんの2軒のお店では 月単位で お店の壁面を ギャラリーとして無料開放していますし、バルの方は 地元のプロサッカーチームのサポーターが集う店でもあるのです。

 

興味深いお話が続く中、オーベルージュの支配人をやっていた時は 高い空からその場を俯瞰しているような意識の状態だった とおっしゃったことが、とても印象に残っています。

当時は 1時間後に雨が降るかどうか あるいは そのときシェフがどこにいるか 分かったとか。その話を聞いた建築士であるメンバーは 優れた大工さんにも同じことが言える と言っていました。それは 優れた建築士にも言えることなのでしょう。その彼が ある神社について なかなかああいう風にその地形を俯瞰して建築することはできない と話していたことを思い出します。考えてみれば 建築という行為は町づくりと同義であり それは風水や陰陽道といった不可視のものを意識化し デザインすることともつながります。そしてまた オーベルージュのような宿も 可視・不可視のものことをトータルにデザインし サービスする場。意識のはたらきが 大きく問われます。しかしそれは 社会のあらゆることに言えるのでしょう。

分野に限らず ある「場」に責任を持つ人は 全体をより広く俯瞰する意識が必要なのだと言うことに 改めて気づかせていただきました。

 

また、Aさんのお話を伺う前 食前酒を飲みながらのおしゃべりの中で 建築と人 ということが話題になりました。人がいて 人の暮らしがあり 人の生きざまがあって それに添う器として建築がつくられているのに、建築の専門家は えてして その視点を忘れて 建築のスタイルだけとりあげる あるいは 建築のスタイルからものごとを語ろうとしてしまう と。

 

Aさんはお話の中で サービスということについても触れられましたが、Aさんが語り目指すサービスもまた 「人」が中心のものです。サービスというものは そうあって当然 と思われるかもしれませんが、なかなか そうでないのが現実だというのが私の印象です。これもまた サービスに限らず この世のあらゆることに言えるのだと思います。ある意味では その基本を忘れて 主客逆転してしまったのが 現在の社会なのかもしれません。

 

 

今月の24日に 社会保障・税の共通番号(マイナンバー)法が参院本会議で可決・成立しました。情報の一元管理は確かに効率的ではありますが その一元管理するものが本人ではないところに 様々な問題が想定されます。個人が自分の情報を一元管理するなんてできるわけがない とおっしゃるかもしれませんが、もしかしたらそれは技術でクリアできることかもしれないと 個人的には思っています。それは コンピューターやコンピューターネットワークの在り方と とても似ていると観じるからです。

 

インターネットのもともとの理想は すべてのパソコンがサーバー機でありクライアント機である「ピア・ツゥー・ピア(Peer to Peer)」(*Peerとは対等の者という意味)だったと聞きますし、それは 現時点で考えられる 理想的な在り方だと思います。しかし コンピューターネットワークの現状は サーバーとクライアントが分離し、自分でサーバーを立ち上げない限りは どこかのサーバーに属し そこに管理されなければならないシステムになっています。ソーシャルネットワークというものも サーバーとクライアントが分離しているがゆえの (ピア・トゥー・ピアの立場から見れば)他者に管理される クローズドなシステムです。これらに共通しているのは 「人」が中心ではなく サービス(提供者)が中心の発想という点でしょう。

 

ただ あるベンチャーキャピタルの方が言うには、自動車をいくら改良しても飛行機は生まれないように 演算機器の延長線上で開発している現在のコンピューターでは ピア・トゥー・ピア的なコンピュータもネットワークもつくれないだろう、人を中心とした 人に寄り添った コンピューターをつくるには まったくあらたな発想が必要になる、とのこと。その方は 次世代のコンピューターの開発に出資しており、去年の3月末の時点のお話では 2015年頃には 今の形のコンピューターは終わりを迎え あらたなコンピューターの創始期になるのではと おっしゃっていました。

 

ピア・トゥー・ピアは 中心のない 対等な これからの カタチ。

「集まルーズ」も 中心のない ピア・トゥー・ピアを目指しています(*あくまで 個人的な意見ですが)。そして Aさんのお店や取り組みも 私にはピア・トゥー・ピアの一つの「ピア」であるように観じられるのです。

 

ずっと着ていたタキシードを脱いで カジュアルなスタイルのお店で独立されたAさん。タキシードが似合う人間になって 50歳になったら 再びタキシードを着てサービスができるお店をつくりたいと おっしゃっていました。私もそれまでに タキシードが似合うAさんに サービスしていただくにふさわしい人になっておきたいと、心密かに誓ったのでした。

 

議会と首長


私の住む市では 近々 市議選が行われます。
告示の少し前から 選挙を意識した駅頭での活動がちらほら始まり、私などはそれによって選挙が近いことを知ったものです。

 

告示前から現在の選挙期間中を含め いくつかのビラを受け取りましたが、その中に一枚 違和感を覚えるものがありました。

それは確か 告示前に最寄り駅で配られていたもの。
一面には 次の市議選に出ることが明らかな数人の立候補者の紹介が載っており、裏には 現職市長の推薦の言葉が記されていました。

 

現在の地方自治の制度では 首長と議会を選挙民が直接選ぶ「二元代表制」を採用しています。革新的な首長が選ばれ 様々な改革を行なおうとしても 旧態然とした議会が反対して実現できない、ということも起こったりしますが、基本的には 行政の長である首長を 議会がチェックする「チェック・アンド・バランス」のシステムとして機能することを目指した制度です。とするならば、市長が 特定の立候補者を推薦し 議員になることを望むのは、チェックされる側がチェックする側に仲間を送る ということですから、地方自治のシステムの精神/在り方に反する のではないでしょうか。

 

ウェブで調べたところでは 「二元代表制は、沿革としてはイギリスの君主制、一元代表制において議員が首長を選出する仕組の中で腐敗が生じ、アメリカにおいて「行政と政治の分断」が議論される中で生まれた制度」とのこと。しかし 日本の地方自治のそれは、アメリカで生まれたものよりも 首長の権限が強く、“分立し独立した権力がチェックし合う機能”が働かない状況にあるようです。

 

その半生を 市民の立場から地方自治の在り方を考え変えていくことに注いできたある方は、「時間をかける」ことの大切さを説いておられました。“革新的な首長と 保守的な議会”という 分かりやすい図式を 私たちはつい好み、その分かりやすい図式の中で物事を理解し片付けようとします。しかし 一気に変える ということは、事前に相当な調えがなければ 大きくダメージを受ける人たちをつくりだすことになりますし、変えていく方向性ややり方が 適当でなかった場合に 修正する余裕というものがありません。「失敗できる」こと 「失敗を想定する」ことは、ものごとをデザインしたり ものごとを進めていく際に 不可欠な視点だと思うのです。
 

そこに暮らす人たちが 納得しながら ひとつ ひとつ 作り上げ 調え 変えていくのが 「自治」というものではないでしょうか。

決して 誰かの思い通りにする ことではなく。

決して 誰かの思い通りにしやすくする環境を つくることでもなく。

 

  おおやけ の ことがらについて

  どうやって考え 決めていくのがよいのか

  決めたことを どういうカタチで 現実化していくのがよいのか

 

地方自治のはたらきを活性化するために いま必要なのは、革新的な首長を選ぶことではなく、自治の在り方 自治のシステム 自治のデザインを見直すことなのかもしれません。

 

 

“イの理” の デザイン

 


いまは こんなにかなしくて

涙も枯れ果てて

もう二度と笑顔には なれそうもないけど…

 

 

先日、中島みゆきさんの「時代」を取り上げた番組が 放映されました。

3.11後の被災地訪問で 少なからぬ人たちが歌っているというその曲。
ある高校の音楽部のメンバーは 避難所の方から


「今まで瓦礫の山ばかり見てて涙も出なくて

 でも あなたたちの歌を聞いて 震災後 初めて涙を流すことができた。

 自分の中で思いが動いたのは あなたたちの歌のおかげだよ。ありがとう」


と伝えられたそうです。

また ある歌手の方は


「乾き切った砂漠に水をぱーっと入れたような感じで

 染み入ったんでしょうね 人の心に。

 ポロポロポロポロと 涙を流されている方が いっぱいいらっしゃいました」

と話されました。

この曲を自分のレパートリーとして歌っている方は

 

そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ

あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ

 

という箇所を聴くと 涙が自然とぼろぼろ出るのだそうです。

 

 

「時代」は私の好きな歌の一つですが、今回の放映によって、堅く閉じたひとのこころを 自然に とかし ひらかせていく歌というものがあるのだと、強く観じたのでした。歌う人によって多少の差はあるかもしれませんが、基本的には誰が歌っても ひとのこころにふれる ある意味 普遍的なカタを持った歌 普遍的なカタを現わした歌、なのだと思います。まさに、番組の中で流れる 「時代」は「多くの人に歌い継がれる間に 祈りの曲となりました」というナレーションそのままに…。

 

   いのり とは イの理 イの流

   いのちの おのづからの流れ そのものに 添うコト/添う場

 

歌は 言葉とメロディに 歌う人の声が乗って この世に現わされます。

歌う人を問わず ひとのこころにひびくうた というのは、「ことばの はたらき」と「旋律の はたらき」が “いのり”になっている ということなのかもしれません。

 

   素粒子と波動 そして そのオオモトのエネルギー場

   それらが いのち に 合って/遇って いるのかもしれません

 

   私には 「時代」という うた が

   自然栽培の農作物 と 同じモノ(=同じ現象)に思えるのでした

 

 

ことば や 旋律 というカタ/デザインに そういうはたらきが できるのなら、
きっと 同じようなはたらきができる 社会のカタ/デザイン というものもあるはず…、と ちょっと我田引水的ではありますが そんな気持ちになり こころ新たにしたのでした。

 

 

1975年に発表された「時代」。

中島みゆきさんは ある時期から この曲をコンサートで歌わなくなったそうです。
そして21年ぶりにファンの前で歌ったのが 2010年(から2011年の年初にかけて)のツアーでのこと。2011年秋の「夜会」をはさみ、2012年の終わりから今年の年初にかけて行なわれたコンサートツアー「縁会」で、通常は前回のコンサートで歌った曲はセットリストに入れないのだけれど この曲だけは今年も歌いたい思います と前置きして始まったのが、「時代」でした。

 

 

つち と ひと


前回のブログに記した うぶすな という言葉。

それは 単に その人の出生地や 土地の守り神ということではなく、そこにあるものを育み活かすはたらき と定義しました。私は その「うぶすな」というはたらきを、固定され決まったものではなく、人が関わることで 深化/進化し変化していくものだと考えています。

 

自然栽培歴30年の方は 土は そこに働きかける人の意識によって役割が生まれ それに応じて変化していく とおっしゃいます。具体的に言うなら、人が畑としてはたらきかけ育んだ土地は畑になっていく ということです。

その方の畑は 祖父の時代に入植した 比較的新しい農地で、火山灰土の お世辞にも恵まれた土地ではありませんでした。しかし その方の代になって 肥料も農薬も使わず自然のはたらきを活かして作物を育む自然栽培の畑としての経験を積み重ねた結果、周辺の農家が石灰などを投入してPHを調整した土地よりも 酸性度が低く、雑草もほとんど見られない “作物を栽培するための場”となっています。通常 雑草の無い土は乾燥しており 風雨によって流出・飛散するものですが、その方の畑は 畑としての土の構造がしっかりと出来上がっているため 水持ち水はけがよく 風雨や日照りといった天候の変化にも 柔軟に対応できるようなのです。

そういった一連のことがらを指して その方は「畑に進化した土」と表現するのでしょう。人のはたらきかけや意識によって 大地(など物質や生物)の潜在能力が引き出される のかもしれません。

 

ですから 長年農地として育てられた土が 放棄され まったく別の用途に使われることは、その土地の進化や経験を無に帰すこととも言えます。もちろん 過去の農地すべてが 現在と未来の農地である必要は無いのですが、土地というものを考える時に 大地と人の営みによってそこに蓄積されたものを ひとつの財産として真摯に受け止め 考慮しないのは あまりにももったいない と思うのです。

 

それは たぶん 農地に限らず すべての土地 大地について言えることではないでしょうか。例えば 私たちが まちなみの急激な変化に対して抱く感慨や思いも その場に蓄積された何か “営み”という時間によってしかつくることのできない財産のようなものを 感じるからこそ、のような気がするのです。

 

また そういった特定の限定された場所に留まらず、“地球という大地”と人の関わり いえ 地球とそこに存在するものたちの関わり によって育まれつくられていくものもあります。地球の環境が、初めから与えられた不変なものではなく そこに存在するすべてのものの関わりによって変化し 現在の姿がつくられているように…。

現在の地球環境も ある部分は 人の意識が作り上げたものとも言えるわけで、もちろん 人だけが地球に生きるものではありませんが 人の活動を考えるならば 環境に与える影響はかなり大きく、人が どのような意識で地球という大地と どのような関係を育んでいくかは 今これからの地球にとって重要なことのように思われます。

 

***

 

昨日届いたメルマガに 経済における「不動産」の重要性について記した文章がありました。それは 投機対象としての不動産ではなく、私たち全員がその上に暮らし そこから発っせられるものの影響を受けて生きている 「大地」としての不動産 についてです。そう捉えるなら 経済のしくみが不動産と不可分に結びつくことは 理解できないことではありません。しかし、現状のシステムが 理に適っているとも思えないのです。

 

大地は 地球は、人がつくったものではありません。

が、人が生きる場として用意されたもの と言うことはできそうです。

用意されたもの という表現が恣意的に響くなら 人が生きて暮らす場 としておきましょう。

そうであるなら 人が大地を所有する という概念は 適切ではないように思えます。

また 現状の技術に基づきこれからのことを考えるならば、大地を掘り起こし 地中のものを売買するという行為は 少なくとも過去のものであり、その行為が 自らが拠って立つ礎を破壊している という認識を持つ必要があるようにも思えます。

 

本来 富とは 人が大地(and/or 宇宙の中の地球)との関わりのなかで育み作り上げていくもの なのではないでしょうか。それこそが 人の創造性であり 真に価値あるもの。不動産が富なのではなく 不動産たる大地や地球の上で 共に作られるものこそが 富。その視点から あらたな経済のしくみをつくれないものでしょうか。

 

土地所有に拠るしくみではなく その場で育まれうまれる「富」に拠るしくみ を。

 

二宮尊徳翁が言う「徳」もまた そんな「富」を意味しているように思われるのです。

 

 

うぶすな

この週末 近所にアトリエを移された建築士の方を訪ねて 興味の赴くままにおしゃべりしているうちに、一見バラバラでまとまりのない私の関心事が 「うぶすな(産土)」という言葉でつながることに気がつきました。

 

 

自然栽培も

天然菌を生かした食品やお酒も

山も森も

自然素材の布も 染めも

エスニックな音楽も

伝統的な手仕事も

旅も

歩くことも

建物も

まちづくりも

学びの場や在り方も

お金の流れも

歴史も

地質や地理も

磐座や神社なども

うたも

ことばも

地球のことも

宇宙のことも

いまは 思い出さない 他のことも

 

 

   はぐくみ いかす はたらきとしての 「うぶすな」 という コトバ

 

 

先日 お話を伺いたいと申し込んだ あるフレンチレストランのオーナーには 「テロワール」という言葉で 伝えることができました。

 

テロワール(terroir)は フランス語で土地を意味するterreから派生した言葉。

スペイン語のtierraは 「大地」の他に「故郷」や「母国」を現わします。
「大地」を意味するイタリア語のterraは 最初のTを大文字にすると「地球」のこと。
terreも 最初のTを大文字にすれば「地球」の意。
terroirは男性名詞ですが terreもtierraもterraも女性名詞であるのが 興味深いところです。


 

   いのち と 限りなく同義のように 今の私には思えるのです


 

うぶすな として 貨幣を使うことができれば…

うぶすな として 社会をデザインできれば… と思うものの、

その具体的なカタチは まだ 見えてきません。

 

 

荒地は荒地のちからで

今日届いたメールマガジンに
ある方の講演レジュメからの一文が 抜粋されていました。



「荒地にも徳がある。その徳を掘り起こせ」と尊徳は説く。   
 そして、その徳は耕す人間の徳に共鳴するという。      
 すなわち、荒地の徳が掘り起こせないのは荒地のせいではなく、
 それを耕す人間の心の中の徳が少ないからだ。        
 この意味で人間の徳磨きが大切なのであり、         
 それは一生を通じて終わりのない修行なのである。       


2年前に 二宮尊徳翁生誕の地で行われたイベントで、
尊徳翁は 各地に行ってその地を興すとき 決して外から人を入れることはせず
その地に生きる人たちによって 行なってきた
という話を伺い、とても印象に残ったことを思い出しました。

その時 市長が引用された
「荒地は荒地のちからで」という尊徳翁の言葉の意味が
改めて身にしみます。



投げかけられた問い


これまで幾度も繰り返されてきたシナリオ/物語が アルジェリアでも展開されました。昨年起きたリビアの米領事館襲撃事件において 逮捕された“アルカイダ系の武装組織”(*メディアの報道における呼称)に マリやアルジェリア出身者が含まれていた と報道されていたことは、今回の出来事の伏線だったのでしょうか。

中東やアフリカを舞台に起こっている出来事が 私に思い起こさせるのは 「テロとの戦いには (国と国との関係を規定した)国際法は適用されないのです」というある方の言葉です。

何が真相であれ、何が目的であれ、人の命を奪う理由にはなりません。
今回の事件の「事実」を明らかにし、現行の法律で問える罪は問い、しかしそれに留まることなく その事件が生まれた根源的な原因を解消する方向へ、植民地支配をも含めた過去を清算する方向へ 世界が向かってほしいと願います。
被害者を出してしまった日本だからこそ 真摯にその点を追求し、これまで繰り返してきた物語を終わらせるための役割を担ってほしいと願うのです。

アルジェリアの事件を知ったのとほぼ同じ頃 「中国から過去最悪の大気汚染物質が日本へ」という記事を読みました。中国や途上国の大気汚染は 私が知る限り かなり以前から指摘されており、公害問題を経験した日本は 技術協力で各国を支援できる と言われていた はずなのですが…。報道された内容が正しいのであれば 大変な問題であり早急に対策を講じて頂かなければ困ります。ただ、これまで報道されなかったものの 核実験によって汚染物質を地球に放出してきた国々もあるわけですし、原発事故によって放射線物質を世界に拡散させ いまなお収束できていない日本も 一方的に中国を非難することはできないでしょう。

これもまた アルジェリアの事件と同様に 事実は事実として指摘し 法的に対応を求められるところは求めつつ、一蓮托生の地球に生きる者同士 持てる技術と智慧を出しあって 地球規模の問題を一緒に解決していく方向へ進んでほしいと思います。
これはなにもきれいごとではなく、他者の命が犠牲になっているシステムにおいては 自分の命をも守ることができないことが 現在 誰の眼にも明らかになっているのですから。

そして 世界の人の命を守り育んでいく 真に役立つ技術と智慧は 日本にも十分用意されていると思うのです。

諍いを作り出し それを抑えるために暴力/武力を使う、そんな物語にエネルギーを注ぐよりも、どうすればそれぞれが自分の人生を生き お互いを尊重し合えるようになるかを考えることにエネルギーを注ぐ方が、苦労はしても よろこびがあると思うのです。どうすればお互いが心地よく快適に暮らしていけるだろうと考える方が、恐怖に怯え 人を疑い敵視するより、楽しいはずなのです。

ひとは そういうふうに できている、と私は観ています。

***

去年の11月だったでしょうか。
ある集まりに参加した友人が、そこでの会話に「脱皮」という言葉が幾度も出てきて(*人も脱皮しなきゃね というような例えではなく、蛇の脱皮などの現実の脱皮という意味で) 不思議に思ったそうです。そのことを私に話しながら、「脱皮するには その中に 生まれ来るあらたな形ができていなければならない」のだと その時気づいたばかりのことを 伝えてくれました。

破壊と建設は同時に起こる とおっしゃる方もいますが、たぶん あらたなものがかたちづくられて はじめて ふるいものはさることができる のだと思います。
繰り返し続けてきた物語を終わらせるには 次代を担うあらたなカタが 用意されなければならない… ということなのだと思います。


そして
あらたなものをつくるのは
現在あるものが古い と 気づいた者たちの
現在あるものがおかしい と 気づいた者たちの
責任なのです。
“そう気づいた” ということは 潜在的に解決の方向を知っている ということなのだと思います。(他人事のように記していると見えるかもしれませんが 自分に言い聞かせてもいます)


一昨日読んだブログに 中国の陰陽と風水に関してのサイトの記事からとして 2013年の予測が記されていました。詳細は 中国の陰陽論における新年の「立春」までに改めて書かれるとのことで 昨日の文章には概略だけが載っていました。それによれば かなり大きな変化が連続して起こる可能性があるとのこと。
それが正しいか 当たるのかは別にして、そういう予測が現実味を帯びている“現状”というものがあるのなら 可能な限り“現状”を根本的に改善していく取り組みを始めることは 可能ですし、そうしていくなら 予測が当たるか当たらないかは どうでもよいこと になっていきます。

このところ 個人的に、こういう問題がある と指摘されること/認識されるということは 解決策があるだろう、と 思うようになりました。“そう気づかされる”ということは 結果的に“そう気づいた”ことになるわけですから…。
要は そう問いかけられた私たちが あるいは そういう問いを立てた私たちが 問いを解くために 意識やエネルギーを注ぐか否か… ではないか、と。

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