Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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シンプルであること 美しくあること

いま参加しているゼミの課題のために 500までの素数を数えていたのですが、
その過程で 思いがけない気づきがありました。

私は まず、
  1  2  3  4  5  6  7  8  9 10
 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
 …
という具合に、500までの数字を10個ずつの列にして書き出し、
次に、事前に教わっていた通りに 2の倍数 3の倍数 5の倍数… と、

値の小さな素数の順に倍数を消していきました。

その過程で、

2の倍数は 一つおきに縦のラインが消え、

3の倍数でも 視覚的に捉えられる一定の法則で 数字が消え、

他の素数にも 似たような法則性らしきものを観じるものがありました。

そのとき

一定のルールや法則のようなものを見つけたリ 見つけないまでも観じると、

嬉しくなっている自分がいたのです。

それは、

すっ と

何かが通ったことに対する 気持ちよさや嬉しさでした。

視覚的に 数字の固まりの中にラインが浮上すると

美しいと 思うのです。

ルールや法則性を発見することは 作業が簡単になり

脳の負担が減ることにつながりますから、

もしかしたら 私たちは、

脳の負担が減り 心身の負担が減ると、

気持ちよさや嬉しさや そして 美しさを観じるのかもしれません。

数学では 数式の美しさが求められる、という話をよく耳にしますが、

もしかしたら その美しさとは

脳の負担が少ない情報の回路であることを意味しているのかも…、
と思ったりもするのです。

その意味において

シンプルであること と 美しさは ほぼ同義であり、

シンプルであること も

美しくあること も

(宇宙の?)理に適っている と言うことができるような気がします。

また、今回の作業で気づいたのは

直線の美しさでした。

直線の道で区画された街は 私は美しいと感じないのですが、

曲線しかないように見える自然の中に

すっ と引かれた直線には

えも言われぬ美しさと爽快さを感じます。

(*例えば 建物のラインなど。ある温泉の半屋外の湯船から眺める 崖の自然を真横に一直線に区切った軒の伸びやかな直線は、いつ見てもほれぼれとしてしまいます。)

それは

今回の作業において、

数字の固まりの中に浮かび上がってくる 空白のラインを

美しいと感じたことと とても似ています。

「直線」というものは

人類の発明した ひとつの抽象、なのでしょうか。

私の記憶が曖昧なので 間違っているかもしれませんが、

前回のゼミで 「直線上の点と平面上の点は同じ数である」ことが証明されたと伺いました。もし そうであるなら、「直線」(の抽象性)は 美しい数式のごとくに思えます。

そして、さらにもう一つ。

脳のはたらきと関係しているであろう シンプルさや美しさというものを考えた時、『人間の建設』の中で岡潔さんがおっしゃっている「積木細工のような数学」は、美しくなく 理に適っていない、ように観じました。それは 岡さんもおっしゃっているように 数学に限ったことではなく、いまの文化が いまの社会のありようが 美しくなく 理に適っていない、のだと思います。

  岡   欧米人がはじめたいまの文化は、積木でいえば、
      一人が積木を置くと、次の人が置く、

      またもう一人も置くというように、どんどん積んでいきますね。

      そしてもう一つ載せたら危ないというところにきても、
      倒れないようにどうにか載せます。

      そこで相手の人も、やむをえずまた載せて、
      ついにばらばらと全体がくずれてしまう。

      今の文化はそういう積木細工の限度まで来ている
      という感じがいたします。(略)

      ともかく大学院のマスター・コースまですませなければ、

      1930年以後の、最近の30年間の論文は読ませることができない。

      言葉の意味を分からせるために、次々と体系を教え込むと、
      それくらいかかる。

      もうこれ以上ふえたら、しようのないことになりますね。

      決していいことだとは思いませんが、
      欧米の文明というものは、そういうものだと思います。

 (略)

  小林  数学の世界も、やはり積木細工みたいになっているのですか。

  岡   なっているのですね。いま私が書いているような論文の、
      その言葉を理解しようと思えば、

      始めからずっと体系をやっていかなければならぬ。

  小林  がちゃんとこわれるようになるのですか。

  岡   こわれませんけれども、これ以上ふえたら、
      言葉を理解するだけで学校の年限が延びますから、

      実際問題としてやれなくなるでしょう。もういまが限度だと思います。

      すでに多少おそすぎる。大学まで16年、さらにマスター・コース2年、
      18年準備しなければならぬ言葉を使って自分を表現している
      といったやり方を
これ以上続けていくということは、
      それがよくなっていく道ではない。

      もういっぺん考えなおさなければいかぬと思います。

 

 (P.29~P.31)


積木細工の文化とは、まとめることを放棄した文化 つまりは 脳に負担を強いつづけている文化、ということができるのかもしれません。

あるいは、思考を停止した文化 なのかもしれません。




【追記】(2013/08/24(土))


おそれることなく

人間が抱く 「はしわたすもの」や「移動するもの・移りいくもの」に対する畏れのはじまりであり根源は、死 ではないでしょうか。次第に年老いていくことも 歓迎しがたい変化ですが、それもまた 年老いた先に死が待っているがゆえの嫌悪や恐怖とわかちがたく結びついているように思われます。

中沢新一さんの『人類最古の哲学』の導入部分で、神話の語り方を考察する例として 人間が死すべき存在になった理由を語る コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの物語が挙げられています。また それと同じテーマを語る インドネシアやベネズエラの民族の神話が紹介されています。いずれも 死は 人間の愚かさのためにもたらされたもの、という描かれ方をしているように、はじまりの頃 死は歓迎されないものと認識されていたようです。その中で興味深いのは テネテハラ族の神話で、死というものを客観的に捉え 思考により死に対する否定的なものを乗り越えようとしている姿勢が見られます。

人は 生命は、個々のものが死すべき存在であるがゆえに進化し 変化し続ける環境に適応することができたわけですし、死は 「シ(=息、命)去(い)ぬ」が語源であるという捉え方もあるように 消滅ではなく通過点であるとするならば(*私はこの立場です)、死は決して否定的なものではありません。たぶん そのことは はじまりの人類も直観し 知っていたのだと思います。しかし その直観を確信しうるだけの脳の状態になるには まだ時間が必要であったため、人間は 神やあの世 そして宗教というものをつくって、(個となった存在を超えた世界についての)自らの直観を深く思考するための土台と安心を得ようとしたのではないでしょうか。

だからといって 人が死の恐怖から逃れることはできませんでした。

死に対する恐れや不安から ひとは無意識に 安定を求めます。

その意識が別の領域で現われると、移動して生活することへの恐れや不安や蔑視が生まれ、定住し安定することを望み是とするようになってくるように思われるのです。

『人類最古の哲学』の中に こんな下りがあります。

神話は宗教の熱狂からは距離を保っているように思えます。たしかにそれは、私たちから見ればずいぶんと非合理な論理を好むように見えますが、その内部に深く入りこんでみれば、非合理の水際に限りなく接近しながら、そこに溺れてしまうことはありません。どこまでも思考の力が働いて、神話を理性(理性という言葉を拡大して使うことにしましょう)の領域につなぎとめています。この特徴は国家というものを持たなかった社会で特に顕著です。国家の誕生は人間の暮らしに、ひとつの解決不能な不条理を持ちこむことになりましたが、それが出現する以前の、まだ人々が自分たちのつくっている社会のかかえる不条理を思考の力によって解決できると考えていた時代には、人間は神話によって、不条理の本質を考えようとしていたのだと思います。(P.26)

私は、ジェームズ・フレイザーもレヴィ・ストロースも また 中沢さんのカイエソバージュ・シリーズ以外の神話について書かれた本も読んでいませんが、冒頭に挙げた例から 私も神話というものが 思考によって不条理の本質を考える手段であったと観じます。

しかし、死への恐怖があまりに大きかった/大きくなったからでしょうか、思考によって問題を乗り越えるという(動的安定の)アプローチよりも 国家のような組織をつくることで得られる固定した安定を、どうやら人類の多くは選んだようです。(*神話的思考にある限界が生じ その次のものを人類がつくり得なかった、という側面もあると考えています。神話的思考の限界を乗り越えるために人類が生みだしたのが 一神教の神であり、認知の拡大と思考によってうまれる(意識の/論理の)跳躍を 一神教の神という“人から分離させた存在”が担った、と言うことができるのかもしれません)

考えるというおこない自体が、
異質な領域をはしわたし うつりいき かわりつづける もの。

  かんがえる ⇒ 間・換える  間・交える

死を受け容れらない意識は
考えることを受け容れることができないのかもしれません。

脳は 自由な環境が整っていれば 新たな創造にいどむようにできていて、その脳の働きを阻害する唯一のものが 恐怖である、という趣旨の文章を どこかで読んだ記憶があります。

恐怖によって固定を望む 私たちは、様々なモノコトを固定することで表面的な安心を得つつも 無意識に恐怖を連想し 様々な恐怖をつくりだしている、のかもしれません。また、動き変わり続けることが自然であるのに その理に反して固定する/固定されると 自動的に恐怖がうまれる、と言えるのかもしれません。

それは、恐怖から逃れるために作り出したものによって 恐怖に縛られている、という皮肉な状況です。何かから逃げ続ける限り 決してそれから逃れられない、ということなのでしょう。

人の中にある否定的な意識も、見方を変えれば、変わることを否定し 変わることを恐れ 現状に留まり固執する意識から生まれているように思えます。様々なネガティブな思いのなかに見え隠れする「私はわるくない」という意識は 思考停止の現状肯定(=現状固定)に他なりません。


はしわたすもの

別のブログに 神話における両義的存在としてのツバメについて 書きましたが、ツバメに限らず 鳥というものは そういう役割を与えられているように思われます。

七十二候は「古代中国で考案された季節を表す方式の一つであり、二十四節気をさらに約5日ずつ3つに分けた期間のこと」(Wikipediaより)で 「各七十二候の名称は 気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になって」います。

その中で 寒露(=10月8日頃)の次候は「雀入大水為蛤」(雀が海に入って蛤になる)であり、立冬(=11月7日頃)の末候は「野鶏入水為蜃」(雉が海に入って大蛤になる)。いずれも 中国の表現ですが 鳥が海に入って蛤になるのです。

自由に空を飛ぶ鳥の姿に わかたれたものをつなぐハタラキを 昔の人たちは観たのでしょうか。

古代の日本において 各地を遊行する非定住の漂白者たちは、現実の社会で わかたれたものを橋渡す役割を担っていました。具体的には 神と人間 生と死 などです。

漂白の民が担った芸能も そのオオモトは おそらく神事やその祓いだったような気がしますし、芸能自体に 時空を異化/転化させるはたらきがあります。また 死者にかかわることや屠畜も 死という“あちら側”と生の“こちら側”を 行き来するハタラキとして、特殊な能力を持つ人たちが担ってきたようです。そして これは推測でしかありませんが、移動すること自体が 異なるモノコトを橋渡すはたらきであり、日本の地を活性化する役割を担っていたようにも思えるのです。しかしそれが いつからか 畏怖が妬みや恐怖へと変わっていき 蔑まれるようになっていきました。

異なるモノコトをつなぎ橋渡すものであり それゆえに蔑まれてきたもの、ということから ふと浮かんだのが 貨幣です。
お金というものは 物々交換では起こりえなかったモノコトのあいだを 橋渡す役割を果たします。それはまさに異界をつなぐもの。
そして、その両義性ゆえに お金は 求められると同時に蔑まれてきたように観じるのです。

ツバメを嫌ったプラトン教団のように純粋化の傾向があるキリスト教において お金を扱うことは長らく卑しいこととされてきました。それゆえに お金にまつわる営みを 漂白の民であるユダヤ教の人たちに 担わせてきたのではないでしょうか。

私は、お金というものは 価値を換算するはかりではない と思っています。

そのモノコトに 注がれるひとの意識の流れであり、「いま」と「みらい」をはしわたすエネルギーのようなものだと 考えています。

融通無碍に動き回れる その移動性・その多義性が ゆがめられることなく人々に受け容れられ 生かされるならば、お金は 計り知れない豊かなハタラキを見せるのではないかと 思っています。

そのためには、まったく無関係に思えるかもしれませんが、移動や行き来すること あるいは変化すること 多義的なことの価値やはたらきを、見直し 評価することが必要なのかもしれません。そしてそれは、定住を原則とした今の社会を 根底から見直し つくりかえることにも つながっていくのかもしれません。

理を活かす

昨日 自然栽培野菜の買い出しの帰りにランチで入ったイタリア料理のお店は、思いがけず 自然派ワインのみを扱っているところでした。イタリアのものを主に 常時60本は揃っているとのこと。洗面所に置いてあったいくつかのカードの中に 私の地元で自然派ワインといえば必ず名前が挙がる酒屋さんの名刺がありました。前菜で出されたお野菜の瑞々しさが美味しくて 尋ねてみると、地元の自然農法の農家さんのものを使っており、魚は直接漁港まで仕入れに行っているのだそうです。

 

まだ自然栽培野菜がほとんど流通していなかった数年前 大阪の自然食品店の自然栽培入荷メールに登録して以来 そのまま現在に至っているのですが、ほぼ毎日届く入荷メールに記される作り手さんの名前に この1年 新しい方たちが増えている印象があります。

 

ある雑誌で 前号は私の住む地域が 最新号は自然派の食材が特集されていました。

その二冊だけを見ても 数年前とは比べ物にならないぐらい 自然に即してつくられた野菜やワインやそれらを使う飲食店が急激に増えているのが分かります。

 

今月の初めに行なわれた、自然栽培のベテラン農家さんと 山地酪農の代表的存在である酪農家さんと 森と海をつなぐ活動をしている牡蠣の養殖漁業家さんを招いたイベントは、大学の講堂が満席となるほどの盛況ぶり。そのとき 酪農家さんの牧場で研修生として働いている若者達が壇上にあがって 将来の夢を語ってくれるのを聴きながら、以前 その酪農家の方から聴いた「地域に密着した山地酪農の牧場と小さなミルクプラント」という未来像が ゆっくりではあるものの 少しずつ形になり始めている 確かな一歩を感じました。そして 前掲の雑誌の最新号で、通年24時間放牧まではいかないものの 冬期以外は終日放牧している酪農家が出てきていることを知り、その印象をますます強くしたのでした。

 

昨日 買い出しに行ったマーケットで 生まれて初めて瓢箪を食べました。
小さな青い瓢箪の実。

生でもいけますが、お漬け物やグリルにしたら一層美味しくなりそうです。それは 今年の春に新規就農した作り手さんが育てたもので、まだ 販売するほどの量はつくっていないとのこと。「一年目にしては まずまず(うまくいっている)」と伺い なんだか嬉しくなりました。

 


 

数年前、学生時代から環境問題に関心を持ち続けてきた家人と 「ようやく まともなことがまもとに話せる時代になったね。少なくとも その点に関しては 良い時代になったね」と話したことを 思い出します。

 

原発のことも

自然環境のことも

つまりは この地球で生きる/生きているということを、まじめに話すことができる時代になりました。そして そういう「まっとうな営み」を当たり前のこととして実践するひとや それを支えるひとが 随分と増えてきました。

 

自然に即した農や醸造や食は、いのちや自然という「私たち人間がまだ解明できていないハタラキ」を まるごとひとつの仕組として活かしたもの、と言うこともできそうです。また 自らのいのちも そのトータルな「ひとつ」のなかにあることを自覚している営み、とも言えるかもしれません。

全体の調和を俯瞰しながら その一部としての自らの営みを捉える視点ーーー

そういう眼に見守られ 育まれた食材だからこそ、いのちに満ち すっと身体になじんで シンプルに美味しく 戴くことが歓びになるのだと思います。また そういう食材がうまれるプロセスにおいては、大地や自然 それに携わる人たちの健やかさを 損なうことはありません。

 

 

私が利用している 自然栽培の宅配は、化学物質過敏症の方から「有機野菜も食べられない。自然栽培のものしか食べられない」と切に希望されたことがきっかけで 始まったと聞いています。奇跡のリンゴの木村秋則さんは 妻が農薬で身体を壊したことをきっかけに 無肥料・無農薬の栽培へと進んで行くこととなりました。私は昔からタバコの煙がとても苦手でしたが、子どもの頃は タバコを嫌うことがわがままとか不寛容と言われるような時代でした。お酒は飲めないと思っていたけれど 自然栽培の材料を野生酵母で発酵させたお酒なら おいしく飲めた、という話は 何人ものひとから直接伺っています。天然物の鮎なら食べられる とか 完全に自然放牧された牛の乳なら飲めるというひともいます。

 

この世の不調和を伝えるシグナルは “炭坑のカナリア”的存在の人によってもたらされることが 少なくありません。しかし、不自然なものを察知するアンテナを持ち それらを受け付けない ある意味正直な身体を持っているひとは、これまで 我がままとか贅沢という言葉で 切り捨てられてきました。そういった外圧に屈して 素晴らしいそれらの感覚を麻痺させて成長したひとも 少なからずいることと思います。

 

自然栽培には 病害虫という概念はありません。

病気も虫の害も 自然の理に適っていない不自然なモノコトを私たちに伝えるシグナルとして 受け止めます。それは 農という営みに留まらず 人の生き方や社会についても言えること。

不調和を見て見ぬ振りをしたり 仕方ないものとして諦めるのではなく、よりよいものを生み出すための サインとして受け取ることができれば、豊かなモノコトが育まれていくのではないでしょうか。

 

雨後の筍のように

夏の植物のように

生き生きと伸び広がる 自然な生のかたち。

地域によって 土地によって 人によって ことなる滋味が楽しめる

多様な美(味)しさと楽しさと豊かさを

まずは いのちとストレートに関わる食の分野が先駆けて牽引しているように観じます。

 

理に適う

理に合う

というよりも

理を活かす

 

そんなイメージが浮かぶのでした。


 

組織のカタチ

この世には 様々な組織がありますが、「組織のカタチは そのまま その場に関わる人たちのエネルギー回路となっている」ことを痛感する出来事が この数年 幾たびかありました。私が知る限り 自律したピア・トゥー・ピア的な組織が存在していない現在において、すべての組織は多かれ少なかれ ひとの意識エネルギーを集め その組織や組織の中心人物のために使われているように観じます。

 

組織が良いものであるのなら 多くのエネルギーを集約し増幅するシステムは歓迎するべきもの、と思う方がいるかもしれません。正しい目的のためなら 良いのでは、と。

しかし 私は、目的が どんなに素晴らしいことであっても どんなに善きことであっても、他者のエネルギーを集めて使うことは 正しくないと考えます。

肉体と同じく 個々人のエネルギーは個々人の決定権の下に生かされ、流れ行く先は「宇宙の流」(とでも呼ぶべきところ)であるのが自然であり それは結果的に最も効率的で最も合理的な道筋だと 観じているからです。

自然の営みにおいては 与えることが まず先にありきです。

集めるのではなく 与え 流すことで、それが向かい行き着く 宇宙の流れ/宇宙の源/宇宙の水面(みなも)から 新たなる創造のエネルギーが流れてくる、というのが自然のスガタ(素型)なのではないでしょうか。そう捉えるならば 神と人間の契約において誕生した(あるいは契約から派生した)であろうギブ・アンド・テイクという概念は 非常に不自然です。

思うに 本来の契約とは、ギブ・アンド・テイクのような ひとの間の/ひとと神の間の(信用の)交換の概念ではなく、個々の存在が宇宙の理を介して(*人によってはそれを「天の下で」と表現するかもしれません)創る コトの場(事場)・ひとすじの道のようなもの ではないでしょうか。

 

いま 「ひとつ」ということについて いろいろ考えをめぐらせているところなのですが、個となった(=異なった)「ひとつ」「ひとつ」のモノ・コトは それぞれの領域において 宇宙という“統べる「ひとつ」”に直結していて、個となった「ひとつ」は 宇宙の「ひとつ」(のシステム)を介して 他の個となった「ひとつ」へ関わっている、というのが本来の姿のように観じています。

ですから ひととひとがこの世で協同するカタチもまた、個となった「ひとつ」「ひとつ」が 宇宙の「ひとつ」を介してつながるようにつくられるのが、自然というか理に適っているように観じるのです。そして 幸か不幸か 現時点ではそういうカタチはまだ現わされていません。

 

たぶん お金というエネルギーのシステムにも 同じことがいえるのだと思います。

 

ここに記したことは多分に抽象的であることは自覚しています。

これを どのように社会の中で 具体的なモノコトとして 現わしていくのか…。

 

すべては これから です。

 

 

 

【補記】

 

私が 未熟な思考をここで記しているのは、“個となる「ひとつ」”と“宇宙の「ひとつ」”のつらなり・相互関係を信じているがゆえの 一つの実験でもあるのです。この数年、直接 言葉を交わさなくとも、私の考えを補完し新たな思考へとコマを進めるような 別のひとの考えに偶然出会う という体験を重ねてきました。身体を持ったひと同士が直接出逢うことでしか生まれないものがあることは 理解していますが、直接逢わずとも 宇宙というシステムを介して お互いが恊働することもできるのだと 観じています。私のブログにコメント欄がないのも 同様の理由からなのです。

果たして私という存在が 個となる「ひとつ」と成れているのかどうかは あやしいですが、少なくとも その方向へ意識のベクトルは向いています。

 

ついでに言うなら、

数多のものが “ひとつ”のなかで 意図せず連動している

そんな印象が日ごと強くなっている 今日この頃です。






【補記】
2013/07/20 一部本文を修正しました


 

ピア・トゥー・ピア(Peer to Peer)=自律


「議会と首長」と題した記事の中で、失敗できることや失敗を想定することは ものごとのデザインに不可欠ではないか、と書きました。直近の2つの記事の中で触れた「ピア・トゥー・ピア」という概念は それにふさわしいもののように思えます。
中心がないモノカタは、それを構成するものが いくつか壊れたり機能しなくても 全体としてのはたらきは それほど損なわれることがありません。つまり いくつか失敗があっても 全体にダメージがそれほど及ばない ということです。そういう環境においては、失敗する恐怖から かなり自由になれるのではないでしょうか。

以前 ピア・トゥー・ピア的な発想に基づいた幾何学の模型をつくったことがあるのですが、その球形を構成しているパーツのほぼ半分が取り除かれても 残り半分の構造は維持されたままでした。その幾何学模型を構築した方は、建造物の重力を地面に担わせてきたこれまでの方法は 過去のもの、と認識されていたようです。

「圧縮力」と「張力」という言葉を その方は使います。

古い日本の建造物の どっしりした大黒柱は 人の心に訴えるものがありますが、大黒柱によって支えられた建物は 大黒柱を失えば その構造を保つことは難しいでしょう。

なにかひとつに依拠する という発想が 終わりを迎える時期なのかもしれません。

そしてそれは、ひとりひとりが のびのびと 自由にいき、そういう個人によって 動的に安定している社会がうまれる 時代の始まりなのかもしれません。



【追記】
 「集まルーズ」というコトバ
 「集ま(る)」は圧縮力 「ルーズ」は張力
 と 捉えることもできそうです


「集まルーズ」ファイルについて


「集まルーズ」のカテゴリーに分類されている記事 及び これから分類されるであろう記事は 「集まルーズ」公認・公式の文章ではなく、私個人の記録であることを 予めお断りしておきます。

 

メンバーの一人が使った仮称から命名された その名。(「つなガールズ」というユニットが先にあり その名前に発想の一端を得たと思われます。)

ルーズ(loose)というと 「緩んだ」とか「すぼらな」という意味を連想してしまいますが、改めて調べてみると

 

「放たれた」「自由な」とか

「開放されて」「解き放たれて」とか

「結んでいない」「離れている」

 

という意味があり

私たちが目指すにふさわしいコトバであることを知りました。

 

人が集まることで発生するネガティブなものを ルーズさによって解消するような、
まさに ピア・トゥー・ピアのような、理想の人間関係を現わした名のように思えるのです。




【補記】
  fileという言葉は 「糸」や「紐」を意味するラテン語が語源とのこと。
  なにか 織りなしていくイメージが浮かんできます。
 

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