Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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ヒトのプロセス

 先日NHKで放送された生物学者・福岡伸一さんの「最後の授業」を観たのをきっかけに 福岡さんの著書を検索したところ、『動的平衡』の続編が出ていることを知りました。早速その2冊を入手し 『動的平衡2』を読み始めたのですが、「なぜ食べ続けなければならないか」という章の中で 食物として摂り入れたタンパク質が「消化酵素によって一旦アミノ酸に分解され 全身に運ばれたのちにそこで再び合成されてタンパク質となって体の一部になる」くだりを読んだ時、私の脳裏には それとよく似たものとして浮かんだものがありました。

 「ことば」と「認知/認識・思考」、です。 

 もし機械の部品を交換するように、口から摂取した新しいタンパク質をそのまま体内の古いタンパク質と置き換えられるなら、そのほうが効率が良いようにも思える。しかし、食物のタンパク質は、人の身体を作るタンパク質と同じではない。食物タンパク質には、もとの生物の情報が含まれている。そのため、摂取したタンパク質をまず一つ一つのアミノ酸にまで分解し、再合成する必要がある。

 それは、文章を解体して、アルファベットにバラしてから、もう一度、自分の文体に書き直すことに似ている。ゆえにタンパク質の分解と合成の流れは止まらない。しかも、あらゆる細胞で、どのタンパク質が分解され、どんなタンパク質が再合成されなければならないかは、生命体の置かれた時間と環境の中で、刻一刻、変化しつづける。


<P.84>



 ヒトが何かを習得するプロセスは 他者の真似から出発する、と説明されることがあります。だから「他人[ひと]の真似から入れ」と。あるいは「型が大事だ」と。しかし個人的にはそういう物言いに対して 何か腑に落ちないものを感じていました。ですから、『ちいさい言語学者の冒険』に記される 子どもが言葉を身につけていくプロセスは、「まさに、まさに。そう、そう」と膝を打ち共感しきりだったのです。

 何が何でも自分の頭の中で、自分の力でルールを完成させたい、それが子ども、またの名を小さい言語学者。

 ジブンデ! ミツケル!

 子どもはどうやら、一般化できるルールを見いだすことに繋がりそうな場合だけ、周囲から得られる情報を参考にしているようです。そのルールが、たとえ大人の文法としては間違っていても、当の子どもがそれでやっていけると思っている段階では、その反例となるような大人の正しい用例も、指導もスルー。ただし、新たな一般化規則が見いだせそうであれば、また大人のことばを参考にしてみたりする。そうして自分で試行錯誤を繰り返していく。

<P.56>

 私は、この記述が言語に限ったものではなく ヒトが何かを体得したり構築する際に普遍なプロセスに思えます。そしてこのプロセスが、「納得する」ということではないかと思うのです。そういう立場から 上掲の福岡さんの文章を雛形として使わせていただくと、次のように書きあらわすことができます。

 もし機械を組み立てたり部品を交換するように、他人から摂取した新しい言葉や概念をそのまま自分に取り入れられるなら、そのほうが効率が良いようにも思える。しかし、他人の言葉や概念は、(全く同じように世界を認知している人は存在しないがために)自分が認知し感受し理解する世界にマッチするとは限らない。既存の言葉や概念には それを作った人や時代の情報が含まれている。そのため、摂取した言葉や概念を一旦留保し それらが生まれた地平まで分解し、そこから世界を眺めて再合成あるいは新たに創造する必要がある。

 それは、摂取したタンパク質を解体して、アミノ酸にバラしてから、もう一度、自分に必要なタンパク質に作り直すことに似ている。ゆえに言葉や概念の分解と合成の流れは止まらない。しかも、それぞれの人において、どの言葉や概念が分解され、どんな言葉や概念が再合成・創造されなければならないかは、生命体の置かれた時間と環境の中で、刻一刻、変化しつづける。

 「自分(のペース)で考えたい!」「自分(のペース)で理解したい!」「自分(のペース)でやりたい!」。『ちいさい言語学者の冒険』からの引用で言うなら「ジブンデ! ミツケル!」。それは、物心ついたころから 私の意識の奥底にずっとずっと渦巻いていた思いです。吉本隆明さんが私を励ましてくれる存在であったのは、彼が「世界を一から自分で理解したい、世界を自分の言葉で再構築したい」と考えそれを実践されたから。その意欲/意志/ベクトルこそが ヒトの自発性や創造性や可能性を育み、また それをサポートすることが EDUCATE/EDUCATION[< ex-“out”+ducere“to lead”(<PIE root deuk-“to lead”)]の目指すところではないかと思うのです。
 マウスの実験ではありますが、時間はかかっても「自分で試行錯誤を繰り返していく」ことの重要性を示唆する研究結果も出てきています。

 最新号の『日経サイエンス』(2018年12月号)の大特集は「新・人類学 ヒトはなぜ人間になったのか」。その冒頭の記事「ヒトがヒトを進化させた」では、人間が成功した秘密は「絶え間のない模倣とイノベーション」であると述べられます。そこでは「ほかの個体のやり方を正確に模倣し、世代を超えて知識を伝達する能力」が強調されていますが、異なる個体間で正確無比な模倣はありえないし 仮にできたとしても正確無比な模倣からイノベーションは生まれないと思うのです。上に書いたように、他者の情報をそのまま身につけるのではなく自分の中で一旦分解して再構築する。そのためには 情報を“一般化する”必要があります。「一般化」とは 普遍なものを見つけること メタフィジックな抽象的理解であり、それはヒトに秀でた能力です。一般化できるからこそ 他人の経験を理解し取り入れることができるのです。ですから、一般に「模倣」と呼ばれている事柄も、実際は そのままのコピー&ペーストではなく、情報を受け取る側の内面における“一般化”のプロセス…「ジブンデ!ミツケル!」プロセスが介在している、と私は考えます。

 先人や他者の知恵や知識や思考や型は 食物タンパク質のようなもの。ヒトは 刻一刻と変わる内外の環境に即して必要なものを採り入れ それぞれの体の中で咀嚼し分解し 自分のコトバとして再構築していく。そうすることで初めて 自分という存在と一体化した(血肉を持つ)知恵や知識や思考や型ができ、それらに基づくコトバは浮くことなく実体のあるものとなって 他者が本当に活用できるものとなるのではないでしょうか。ですから、普遍的なものを捉えることができた言葉や概念…すなわち優れた一般化が実現された言葉や概念は、優れた公式のように、他の人にとっても 自ら認識している世界にスッと馴染みそっと寄り添う 耐用性が高いものとなることでしょう。そしてそれらは、文字通り体すべて“全体”の経験を通じて生み出されるものだと思うのです。

 私たちは つい 脳の俊敏なはたらきに眩惑され、「少しでも早く。少しでも速く。」という衝動に突き動かされてしまいます。しかし 脳は、どれだけ目覚ましい役割を果たしているとしても 臓器の一つに過ぎず、体全体のつながりの中でこそ その能力を発揮できるわけで、“全体”で納得するプロセスを端折りそれを育むことなく 脳だけが突出して技術や知識を得ようとしても、一時的あるいは短期的には 多くのものを得るかもしれませんが、個体の一生そして人類全体の蓄積を考えた時 それは意味がないだけではなく ヒトの可能性を貶めるという害を及ぼすことになる可能性は否定できません。だからこそ、知識や技術や経験の扱いは慎重にならざるを得ない。タイミングは人によって異なり それぞれの時機を得ることが非常に重要だからです。

 今、脳に働きかけ脳の状態をコントロールすることでパフォーマンスを上げる取り組みが 様々なところで行われています。体全体の状態を知るための客観的なツールとして脳波などを用いるのは 人の可能性を広げるトータルなアプローチとなりますし、考え方や動作など(一定の型)を用いて脳の状態を変化させ 体をコントロールする方法も 適当なところまでなら好ましいアプローチとなりえるでしょう。しかし、後者の場合、聖痕のように 強力な自己暗示による(脳から)体への介入は 洗脳との境界線上にあるもので、危険な様相を帯びてきます。宗教やスピリチュアルと称される活動は 自己暗示の好ましいアプローチのレベルにおいて人々にとっての救いになってきたと考えられますが、洗脳との境界を行き来する振れ幅が大きくなると (体とつながっている/体がつなぎ止めている)現実から脳が遊離し暴走し 独断の世界へ突入していきます。それは 思考の放棄です。

 だからこそ、「ジブンデ! ミツケル!」ところから出発する試行錯誤が大切であり それが可能な余裕を社会につくっていく必要があります。すでに教育の最前線では実践されているのかもしれませんが、広く様々なところで分野で 生涯にわたりヒトが本来備えている特質に沿ったプロセスを踏むことができる場と時間が 作られ確保されうることを望んで止みません。ヒトは「“余”の中」でこそ存分に生きられる―-。そのためには、社会のあり方を一旦分解し再構築あるいは新たに創造する思考が 不可欠なのでしょう。



【補記1】

 子どもたちと関わる仕事をしている友人から 3年前の12月の初めに届いたメールに、“子どもたちの「ジブンデ!ミツケル!」よろこび”が書かれていて、私は 折に触れ 思い出すのでした。

この秋~冬って子どもたちの言語発達がすごくて、
(思い込みかもしれないけれど。そして春は情緒が発達すると勝手に思ってる。)
なんだか近頃は2歳前後の子どもたちといるときに、
ヘレン・ケラーの、水が水ってわかったときのような、
こんにちは、がこんにちはだ!ってわかって声になったときの、
入り混じってた感情が、怒りとして独立して声になったときの、
「よろこび」をたて続けに目にして、
あぁこれが内面から湧き出る‘悦び’だーって痛感することがありました。

【補記2】

 『子どもの言語習得と精神発達に与える大人の影響』(ミリアム・T. ブラック/2010年「死生学年報」)には、言語習得における必要条件として次の3つ

(1)習得すべき言語を流暢に話せる人との言葉のやりとり
(2)すぐに意味が感じ取れる言葉に触れる
(3)自分のための言語使用

が、挙げられており、次のように結論されています。

「子どもは、まず初期の段階で(習得すべき言語を流暢に話せる)人と接することによって、そして自ら進んで物事を発見するようにまかせられることによって、さらには言葉をよりしっかり使うように促されることによって、良い影響を受けることができる。」

 この内容は、言語だけではなく、他の(習得すべき/習得したい)知識や技術についても、そして 子どもに限らず大人にとっても 同じようなことが言えるように思えます。

【補記3】

また、上掲論文では 言葉/言語の使用と身体(運動)のつながりが強調されていて、身体感覚に根づいた言葉/言語の理解が基礎にあることの重要性が指摘されていました。そしてこれもまた、子どもに限ったことではなく 大人にとっても/大人になっても大切なプロセスだと思います。


「言語の使用は、最初は子ども自身の発話を通して、能動的で機能的な役割をもつ。発話行為それ自体が身体運動の一つなので、子どもは発話のたびにその発話行為そのものが神経的な信号を含むことになる。」

「子どもは言葉を発するたびに、それ自体が身体を動かす行為の一つなので、話すことは神経を媒介していることになる。したがって、話し相手のいない「自己発話」も軽視すべきではなく、子どもの精神発達にとって重要な要素である。」

「子どもが五感(たとえば、物を目にし、人の行動を見て、自分自身の動きを伴って)を使いながら、意味内容を感じ取れるような特定の状況下で、言葉は感覚器官とも連動していき、子どもにとってはじめて意味を感じ取れる言葉となっていく。想像してみてほしい。ある大人が音楽をかけ、踊り始め、子どもにこう言う。「踊って! 踊って!」すると、子どもはにっこり微笑み、踊り始めるかもしれない。ここには子どもを取り巻くことがらにおける一連の同時進行の状況がある。つまり音楽を聴いているという状況、大人が踊っているのを目にすること、子ども自身の身体の動き、こみ上げてくる楽しい感情。こういったものが、その後「踊って!」という単語に結びついていく。子どもと言葉を交わす場合には、その言葉が状況とじかにつながっていることが重要であり、そういった結びつきがその後の基礎になっていく。」

【補記4】

認知/認識=cognition< com “together”+gnoscere “to know”



【補記5】

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