Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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「納得して決める」ということ

デング熱の報道に接しながら、感染場所が東京のど真ん中であることに ずっと違和感を覚えています。

鳥インフルエンザやエボラ熱やウエストナイル熱…

次々に“発症”するウイルス感染。

ウェブで検索すると その違和感を補強してくれる情報はありますし、医療ビジネスのしたたかさ(を通り越した たちの悪さ)を記す方たちも少なからずいらっしゃいます。

事実はいずれ明らかになる 明らかになってほしい と思いながら過ごしている日々、宅配野菜に同梱されていたニュースレターに 下記のような文章が載っていました[*「つづきはこちら」以下をご参照下さい]。私も著者と同じ神奈川県民ですが そのようなことが進行しているとは まったく知りませんでした。
思考停止がもたらす“惨状”と 現在の社会構造(=デザイン)の醜悪さについて、考えさせられます。

「強制」がもたらすのは 思考停止です。

それは 人の創造性や可能性を潰し 生命力を奪うことへつながっていきます。

いのちを中心に据えた いのちを育むクニづくり。

そのためは 狭い範囲での「安全性」や「安心」を超え、いのちというものを より広く トータルに捉える必要があります。そして ヒトがヒトたるゆえんである(また 意識というものの主要な特性である)「選択」が確保される必要があります。その選択も 「納得」したものであることが 大切です。

ヒトという生き物の在りようを知れば知るほど、他者と関わり 他者とつくりあげていくことの希望をかんじます。また 様々な経験から学んでいく素晴らしさと それを担保する(時に急かしたくなるほどの)泰然としたペースの奥深さをかんじます。その在りように 強制という(急いて一色ですべてを塗りつぶしてしまうような)言葉は あまりにも不似合いではないでしょうか。

納得しながら選択し創造する…という在り方は いわゆる“民主主義”のそれと同じです。民主主義というものの本質は いのちのありように寄り添ったものなのかもしれません。その場合、多数決の原理によらない 和解に近い“全員一致”の民主主義のほうが いのちの本質により近いように思われます。

昨日アップした記事のタイトルは「アジール」でした。

アジールとは 強制のない自由な空間。

それは “民主主義”を育む空間とも言えます。

その自由とは みずからとおのずからが調和したところに起因する自主的ないとなみ であり、自主主義とでも表現したい“民主主義”というコトバを介して、アジールもまた いのちとつながっていきます。

いのちは そしてまた いのちを育む社会は、どうやら 自主や自由といった在りようと 密接につながっているようです。


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*著者の大橋崇さん(ナチュラル・ハーモニー所属)の了承を得て ここに全文を掲載させていただきます。文中の「ハーモニック・トラスト」とは ナチュラルハーモニーが提供する 会員制の自然栽培野菜宅配サービスの名称です。


代々木のもり

先月の末、建築家の槇文彦さんが 新国立競技場の対案を出されました。

新国立競技場の国際デザイン・コンクールで最優秀賞となった案については、既に指摘されているような様々な問題から 私も 見直しを望む者であります。その対案として 2011年までの方針であった現国立競技場の改修案も含めて いろいろなものが提案されていますが、今回の槙さんの案の中で ひときわ私の目を引いたのは、“未来の人たちへ 現在の私たちが何を贈ることができるのか”を考え それを踏まえて示された オリンピック後の活用法についてです。

槙さんは、オリンピックが終わった後 この施設を成人だけではなく子供も楽しめるよう 「国際子供スポーツセンター」(*仮称)を併設することを提案し、「この施設は、外苑東側の絵画館+銀杏並木道が大正の市民から我々への贈り物であったように 平成の都民の未来の子供達への贈り物になり得る。」とおっしゃいます。

私がこの案に強く惹かれるのは、現在 そして これからの人(特に子どもたち)には カラダの適切な動かし方をきちんと学ぶ場が必要であり、槙さんが提案する施設が その場になり得るのではないだろうかと、感じるからなのです。

言うまでもなく 脳はカラダの一部です。私たちの思考は カラダに支えられています。ハンディの有る無しに関わらず、私たちが 持てる可能性を発揮するためには、まず その土台である カラダが持てる機能をきちんと発揮できていることが不可欠ではないでしょうか。カラダのデザインに即した“合理的”な カラダの使い方ができるようにすることは クニづくりの根本である「人づくり」の第一歩だと思うのです。


いま、スポーツトレーナーの中から 正しいカラダの使い方を伝えようとしている人たちが出てきています。以前の記事にも書いたように スポーツやダンスのプロの動きが 必ずしもカラダによいわけではありません。あるトレーナーの方は「プロのスポーツ選手は それが不自然だと理解した上で パフォーマンスがあがるカラダの使い方をしている」とおっしゃっていました。最近読んだ トレーナーの方が書かれた本にも、カラダには適度な硬さが必要であり 「そもそもヒトの股関節はその構造上、前後左右に180度開脚できるようにはできていません。通常、両脚は前後に140度前後、左右には90度前後しか開かないようにできているのです。(略)開脚は、ある意味異常な姿勢です。一般の人は、開脚をする必要も効果もありません。」とありました。しかし現実は、断片的な情報が溢れる中 “素晴らしいプロ”の動きを そこに至る様々な知識や努力が欠落したままあこがれ真似て 不適切にカラダを動かしていたり、体育の授業や カラダをケアし調えることを生業としている方達においても 間違った情報を提供していることが少なくありません。

理想は、保健体育の授業が適切な内容になり カラダに関わる仕事(*靴の製造・販売なども含めて)をしている方たちが適切な情報を提供できるようになることであり、それを目指して いまから環境や制度をととのえていく必要があるのですが、そのヒナ型として 槙さんが提案される子供向けのスポーツ施設を活かせるのではないだろうか、と思うのです。

私は、スポーツ施設のコンテンツについての槙さんの提案に、「ヒトのカラダは本来どのようにデザインされていて どのように動かすのが理に適っているのかを知り、それに基づいて動かす」ことを加え 脳科学や医学の分野からのサポートも得ることを提案したいと思います。更に言うなら、カラダは意識や環境と不可分な関係にあるので “自らのカラダを置き その中でカラダを用いる「環境」を 自然と共につくっていく”視点から、自然環境や地球学のような分野のサポートも得たコンテンツができると良いなぁ と思うのです。その視点は、素晴らしい人工の杜を持つ神宮の 外苑の場がスポーツ施設のために提供されていることとも つながっていくように思えます。(*常時更新され続ける「触れる地球」も どこかに置きたいものです。私たちのカラダを取り巻いている ある意味では私たちの皮膚の延長とも言える地球の、まさにリアルタイムの状態を観ることができるのですから。)



内苑の杜が その維持や調査において 生物に関わる様々な分野の人たちを緩やかに結びつけ それらの最新の知見が統合され生かされているように、外苑のその施設が もう1つの自然であるカラダに関わる様々な分野の人たちを緩やかに結びつけ それらの最新の知見が統合され生かされ伝えられる場にできるなら、あの代々木の地は 新たに代々伝えうるキ(機・輝)を得ることになります。

  大正の人たちは、

  人が関わることでよりよい環境や自然をつくることができる例を示してくれ

  その「現物」を 贈ってくれました

  いまを生きる私たちは、

  未来の人たちに

  よりよい身体や環境をつくっていく 一つの起点となるような 

  情報発信と体験の場を贈ることができます

  そういうアプローチによって

  内苑と外苑が

  より有機的につながっていくようにも思えます

延びに延びていた国立競技場の解体工事は 9月29日から始まるようです。

解体されてしまえば 改修の可能性は消えてしまいますが、「有蓋で12日間の音楽中心のイベントと 無蓋で365日大人も子供も楽しめる環境の どちらを貴方は選びますか」という槙さんの問いかけは生き続けますし、よりよい未来を創る機会も まだ充分に残されています。

いま、わたしたちは どんな未来を描き、何を伝え 何を手わたしていくのでしょう。

みちすじ


死はおそらく
生が産んだ唯一無比の 最高の発明品です

それは生のチェンジエージェント

要するに
古きものを一掃して 新しきものに道筋をつくっていく
はたらきのあるものなんです


Death is very likely the single best invention of life.

It's life's change agent;
it clear out the old to make way for the new.


スティーブ・ジョブス氏のスピーチより)





過去から未来へ
先の人から後の人へ
死す者から生る者へ
バトンを確かに渡していける
そんな生命のいとなみにそった社会へと…




生物として

昨日 ふと思い立ち
知り合いが経営メンバーに名を連ねる会社のHPを 久しぶりに開いてみました

有用微生物の研究をてがけるその会社の「我々が追求していること」には

次のように記されています

現在の科学では、生命現象の多くがまだブラックボックスの中にあります。このブラックボックスを完全に解き明かし、人間が生物を完全にコントロールしたシステムを構築しようとするのが現在主流になっている考え方です。もう一方の考え方は、生物が生物であることを受け入れ、全てを人間が理解しないままでも生命の現象を人間の為に利用することができるシステムを作り上げるという考え方です。

現在、生命科学技術の発展の為に投資されている研究資金のほぼ全てが、前者の考え方の実現するシステムの構築に対して投資がされています。しかし、現時点で生物を利用した様々な活動(農業、食品、科学、製薬)で実際に大きな経済価値を生んでいるのは後者の考え方で構築されたシステムだけであるという事実にはあまり注意が払われていません。

(略)

生物を生物のまま利用するために、我々は生物が生きようとする力、環境に適応しようとする力にもっと謙虚に注目すべきであると考えます。人間が考えた理屈を生物に押し付けるのではなく、生物を生物として受け入れ、自然に対して謙虚に、生物と共に地球環境を維持する世界を作ること。我々はこのことを追求して行きます。

「生物を生物として受け入れ

 生物が生きようとする力 環境に適応しようとする力に注目すべきである」

この認識は 自然栽培にも通じますし、
いま私がまとめようとしている人間観にも 共通するものです

「人も生物である」ことを忘れてしまったが故の 現在の社会。
人は 他の生物に対してやってきたように 自らの存在に対しても接してきたのではないでしょうか。

 

    頭だけで考えた理屈を押し付けるのではなく

    生物であること受け入れ

    自らに対して 自然に対して 謙虚に

    生物とともにある世界を作ること



“生物としての人”にもとづいた社会システムを
わたしたちは 考え 実現を目指します

たようせい

先日アップした記事に「多様な要素があることや 刺激が多いことが 一概に良いとは言えませんが…。」と書きました。そこでは「多様な要素があること」と「刺激が多いこと」を 同列に扱ってしまいましたが、「要素」と「刺激」は まったく別の概念です。

現代社会や都市環境は 情報があふれ 刺激が多い、ということは おそらく誰もが同意されることと思われます。10年前 自分の内面に向き合わざるを得なくなった私が 一番最初にしたことは、ちまたにあふれる情報の遮断でした。テレビ、雑誌、音楽…といった人工的なものの一切を 当時の私(の身体)は まったく受け付けなかったのです。そして 自然のなかにいて 自然と触れあうことで、自分のなかの何かが回復していっていることを観じていました。

それは何を意味しているのでしょうか。

大橋力さんの著書『音と文明 音の環境学ことはじめ』のなかに そのヒントがありました。

ほとんどが人工のものによる音で構成されている「街の音」は (音が響く)時間や空間が小さく区切られた“断片”の寄せ集めであり、その断片の音も周波数帯が狭く スペクトル構造が単純で 時間的な変化もほとんどありません。狭い時空の範囲に 離散的な音が集まっているため、「刺激が多い」(正しくは「刺激が強い」)と感じられるのだと思います。

一方「自然の音」は 時間的にも空間的にも連続していて さまざまなゆらぎを含み ゆっくりと移り変わっていきます。それらは 人間以外のものが発する音が優勢なので 音のスペクトルの幅はかなり広くなります。その「多様な要素」に支えられた 懐の深い場に、私たちはやすらぎと静けさを感じるのでしょう。しかし その「静けさ」は 数値的に静かである ということと同義ではないようです。

日本の騒音基準には 最高で「70デシベル以下」という基準があります。
これは 幹線道路に近接する場所についての基準ですから かなりうるさい音と言うことができます。ところが それと同じ数値を出す場所で 静けさを感じる、とこの本には書かれているのです。

モンスーン・アジアの水田農耕を営む村落環境や、多雨性の熱帯地域で今なお狩猟採集民が棲む森林などに私たち自身が騒音計を持ち込んで実際に調べてみたところ、(略)騒音計の目盛りは、静かな村里の中で50dBA[*ブログ筆者注:デシベル。dBとも表記する]あたりを、また爽快な森のしじまの中で60dBAあたりをベースラインに指し続けるばかりか、ちょっとした生命の営みや生態系のゆらぎによって、その目盛は70dBAの上にまで簡単にはねあがる。それにもかかわらず、感覚感性的には静寂感が保たれ、快適感はゆるぎもしない。
(P.16~P.17)


さらに、この本に載っている「街の音のスペクトル」と「森の音のスペクトル」の図(P.66~P.67)を見ると、「街の音」が20kHzまでの間に収まるのに対し、「つくばの屋敷林の音」や「バリ島の村里の音」は50kHz 「ジャワ島の熱帯雨林の音」や「モンゴル草原の小川のせせらぎ」は130kHzまで そのレンジを伸ばしています。

こちらのページの「3.デカルト的射程の限界を暴く」のところに、スペクトルの図が紹介されていますので、ご参照下さい。)

ヒトの可聴域はおよそ20Hzから20kHzと言われていますから、人に聴こえるのは「街の音」の範囲まで ということになるのですが、その可聴域を超えた高周波の音が 人にとって大切な働きをしているようなのです。
(この点については 上でリンクした対談ページの「5.聴こえない音を聴く脳を見る」を ご参照ください。)

この本には 高周波が豊かに含まれるオルゴールも紹介されていて、その音が「ジャワ島の熱帯雨林の環境音」や「モンゴル草原の小川のせせらぎ」と同じ130kHzまでも広がる幅広いレンジの中で 低周波から高周波にかけてゆるやかに揺らぎながらフェイドアウトしていく ひとつらなりの山脈のようなスペクトルを描いているのを見て、一度その音を感じてみたくなりました。
調べてみると 実際にそのオルゴールの音を体験できる場所があることがわかり、今年の3月初旬に訪ねてきました。

その率直な感想は…
自然の音の方がいい(だろう) というものでした。

ジャワ島の熱帯雨林を訪ねたことはありませんが、バリ島の山麓や スマトラ島の山の中 あるいは屋久島や日本の山々などの音と比べても オルゴールの音は“刺激が強く”“不自然”だったのです。

それが何に由来するのか 実際のところはわかりません。【*補記】

ただ この体験が教えてくれるのは、それがどれだけ細やかに行なわれた測定であり 結果として好ましいことがらとの因果関係が見受けられたとしても その測定や数値から現実を規定することは とてもあやうい、ということです。

このことは 本の著者である大橋力さんもわかっておいでで、持続したひとつの音の中のミクロな時間領域で変容する音楽の信号構造を可視化するために開発した「MESスペクトル・アレイ」について 次にように書いておられます。(*既出の音のスペクトルは この方法で可視化されたものです)

 かつて五線譜が音楽のマクロな構造を視覚パターンとして捉えたように、私たちのMEスペクトル・アレイは音楽のミクロな構造を視覚像に描き出した。では、このスペクトル・アレイは、これまで五線譜が果たしてきたような「音楽と等価の視覚像」あるいはそれに近い「高度に規範的な音楽の鋳型」として機能でき、そのように機能させるべきものだろうか。このような性格の問題についてポラニーは、「手放しの明晰さが、複雑な事象についての私たちの理解をいかほど破壊できるかがわかる。包括的存在について諸細目をこまかく調べるうちにその意味がぬぐいさられ、その存在についての私たちの概念は破壊されてしまう」という。(略)

 音の環境学からは、さらに次の指摘を重ねておきたい。そもそも、私たちがMEスペクトル・アレイ法で描いた尺八やガムランの音の像は、特にそのミクロな領域で変容する構造は、音楽の要素であると同時に、決して再現することのない天然の生物現象の範疇にも属する。それは、例えば獅子が鹿を狩る時のある一回の追跡経験の軌跡にたとえることができる。その一回の分析記録は、経験の蓄積やのちのちの教訓としてはたしかに貴い効用をもたらし、とりわけ洞察の資源として絶大な価値を導くことだろう。しかし、そうであるからといって、果たしてそれが「狩りの鋳型」としてポジティブな効用を導きうるだろうか。(略)狩りの行動の諸細目とは、基本的には生物コードに支配されつつ、具体的には実行される時空系で偶然と必然に揺り動かされながら形づくられる一回性の履歴に他ならないのだからーー。

 それと同じように、人類本来の音楽のミクロな構造も、生物コードと文化コードに基本的プロトコルを支配されつつ、その演奏の場の情報環境を含む多大な偶然の影響をおり込みながら築かれている。その一瞬の姿を切り出したMEスペクトル・アレイは、己自身が創り賞味しつつある音について、そのままでは不可視の断面を顕したものにすぎない。MEスペクトル・アレイ法の有効性は、まず、この複雑なものを瞬時に彫塑し読み解いている非言語脳の活性を啓示し、言語世界一辺倒となった近代文明が自らに施した、眼のうつばりを除くところにある。あわせて音と人とのかかわりの見直し新たな叡智と洞察を築く端緒を開き、その歩みや稔りを評価する役割においてこそ、期待されるべきものだろう。(P.374~P.375)

[*著者注:文中にある「言語世界」の「言語」とは 狭義の言語(=通常言われる言語)ではなく、記号化されるもの・意識化されるもの というより広い概念として使われています。]

「人が知覚できるのは 一部である」という 当たり前のことをこころに留めるとき、「感知・知覚・認知できない多様さを いかに身近な環境に確保し維持できるか」ということの重要性がひときわ大きくなってきます。

生物の多様性 自然の多様性…

そういった多様性は、ヒト/人という存在の本来の能力を開花させ 可能性を育み担保するもののように思えます。それらは 自覚されえないシン-putareを支えてくれるものであり、その領域において 私たちとつながっているものでもあります。

「環境」というものを、自分自身の延長・身体の一部(ひいては脳の延長であり一部) として捉える視点が いま 求められているのではないでしょうか。また それは、未知のもの・未完のものが 自らのうちに在ることを知り それとともにいきる、ということでもあるのだと思います。








【*補記】(2014/06/18(水))

高周波オルゴールの音と豊かな自然の音の違いが 何に由来するのかわからない、と書きましたが、一つはっきりしていることは その音を構成している要素の数です。一種類の金属が弾かれた音と さまざまな自然が織り成す音。たとえ周波数の幅が同じであっても そこに含まれるものや響きや体感・観覚は 違っていて当然ですね。




【補記その2】(2014/07/02(水))

上記の補記に関連して。
ライアル・ワトソンさんの著書『エレファントム 象はなぜ遠い記憶を語るのか』のなかに 次のような記述があります。

 バーニー・クラウスは著書『野生の聖域へ into a wild sanctuary』の中で、音の棲み分けという考えを持ち出している。それぞれの種は、音響的“なわばり”を持っている。つまり意志をうまく伝達するために、他の種に使われていない周波数を自分のものにしている。
 (略)
 生態が安定したところでは、生物音が切れ目なく全体を満たしている。あらゆる周波数のスペースがきちんと埋められているので、音が一つの完全な状態を保っているのだ。それぞれの地域で、生物たちは互いに穴埋めをするように音を出している。そして象がいなくなった今、象の占めていた場所には音の穴が開いている。
 これは重要な発想だと思う。自然を全体として捉え、その鼓動を聴くことの大切さを教えてくれる。一部の文化において、ある種の音が自然に有効な働きかけをすると考えられているのもうなずけるだろう。彼らは音によって世界の裂け目を癒し、森の隠れた生命を呼び起こすことができると考えている。(P.330〜P.331)

象の占めていた場所に開いた穴を埋めるように 人が音によってはたらきかけ それが有効に働いたとしても、たぶん… いえ きっとそれは 象がいたときの全体性とは似て非なるものになるのだと思います。高周波オルゴールが 同じ周波数の幅を持つ自然環境とは 全く異なる音を奏で、それは後者に勝ることはないように。

人(のはたらき)だけで 世界の全体性をつくり保つことはできません

[転載]安藤忠雄さんへの公開書簡

「明治神宮外苑と国立競技場」さんのfacebookに 6月9日に投稿された、建築士・元倉眞琴さんの 安藤忠雄さんに宛てた公開書簡に 大変共鳴いたしましたので、転載させていただきます。facebookの中ではないものの“一つのシェア”というつもりでの転載です。が、問題があるようでしたら 右プロフィール欄でリンクしているRi-デザイン研究所のサイトよりご連絡ください。


文中でも触れられている2016年オリンピックの招致の際の案には、私が知る限りでも 未来を感じさせる視点が盛り込まれていました。

     東北の震災を受けた日本で初めて行なうオリンピックは、
     人類の未来に貢献する「これからの在り方」を提案する

当時 招致委員だったある方は、常に変化し続けている地球の変化を 柔軟に受け止められる「ロバストな都市」として 東京の街を創っていくことを提案されていました。

改修するにしても 莫大なお金がかかることに変わりはありません。

そのお金を より有効に 世界のために使う方向で、2020年のオリンピックというものを考えていってほしいですし 考えていきたいと思います。
(*(歴史を持つ建物を)改修して使い続ける という在り方は、世界の潮流ですし これからの一つの姿でありモデルでもあると思われます。)


***


今日私から安藤忠雄さん宛に以下のような手紙(公開書簡)を送りました。


拝啓、安藤忠雄 様

同じ建築家の知人として、提言を申し上げます。

貴方が独学で建築を学ぶなど人一倍の努力を重ね、これまで多くの優れた建築を創り出してきたことに対して、私は常に深い敬意を寄せてきました。
貴方の姿勢はいつも弱者である名もない人たちへの味方をするものでした。神戸淡路大震災での行動や、東日本大震災での行動はそのことを良く表しています。そして自然を守り、失われた自然を取り戻そうとする運動は多くの人の共感を得ています。
貴方は建築をデザインするとき、「その環境に一番適した建築の在り方は何か」というテーマを追求し続けてきました。六甲の集合住宅での地形と建築のあり方、淡路島での植物のための地形の構築、地中美術館での景観への配慮、表参道でのケヤキの並木を配慮した建築の高さへの配慮など、植物や地形などの自然や景観に対する優しい関わりこそが安藤建築である、ということができるでしょう。

地球環境の危機が叫ばれている現在、世界は貴方という人と貴方のつくる建築が示している環境への優しさを、必要としています。そして貴方がこれまで探求し続けてきたものは、これから向かうべき私たち社会の象徴としての役割を担っています。安藤さん、私は今世界中の人が貴方の「何に」高い評価を与えているのか、そのことを改めて認識して欲しいと思います。

ここで改めて「新国立競技場」の問題を考えてみましょう。
どう考えてもこのプロジェクトはこれまで築き上げて来た貴方の思想、貴方の建築、そして貴方の神話(ストーリー)にそぐわないものです。
樹々を切り倒して神宮外苑を荒らしてしまうことは、ほんの少しの樹木でも守ろうとしてきた貴方の自然観に合わないはずです。
あまりにも巨大な構築物は、貴方のいつもの景観に配慮する態度とも合わないはずです。表参道での提案とどのように辻褄を合わせるのでしょうか。
あるいはこの競技場案が景観的にスケールアウトのものではないと思っているとしたら、貴方のスケール感(音痴)はプロである建築家としては恥ずかしいと思います。
貴方が常に力を貸してきた弱者である名もない人たちに対して、今回は味方にはならないのはどうしてなのでしょうか。 私はここで貴方が勇気を持って行動してくれるものと信じます。
そうすることによって世界を含めた私たちが、これまで信じてきた貴方に対する評価を持ち続けることができるからです。
私は貴方に以下のことをしてくださるよう希望します。
今回の新国立競技場の案を神宮外苑につくることを一度凍結してください。そして改めて、英知溢れるすばらしい改修案のプロジェクトに移行するか、あるいは、湾岸地域にザハ案を建設するかの検討をしてください。
確か前回貴方が提案した湾岸エリアにメインスタジアムを置く「みどりと風の道の提案」は、東京の自然環境を積極的に改善するという、貴方の思想そのものを良く表した優れた提案でした。今からそれをやりませんか。

確かに今では国の体制の一部を担っている貴方にとって、今から決定を覆すことはそう簡単なことではないかもしれません。ただし、勇気を持ってこれが実行されれば、貴方の思想や貴方の建築の一貫性は保たれ、環境と建築の神話はさらに強化されることになります
今の計画を転換することによる多くのハードルは私たち建築の仲間や、市民の仲間、そして世論の力で乗り越えていくことができます。その努力は惜しまない覚悟です。
もし新たな国立競技場に向かって進むことができるのなら、そのとき東京オリンピックは、みんなが心を一つにした本当のお祭りになるでしょう。それがオリンピックの原点なのではないでしょうか。

勇気を持って、舵を取り直してください。                               
                                 敬具

   
                          平成26年6月9日
                       
                              元倉 眞琴

壱木呂の会展


以前ブログの中でご紹介した原田陽輔さんと出会った「漆サミット」

その実行委員でもある漆芸家・本間幸夫さんは 仲間と「壱木呂(いちきろ)の会」をつくり 国産漆を育む活動を長年続けていらっしゃいます。
その「壱木呂の会」のNPO法人化にあわせて 展示会が近々開かれるとのこと。
このクニで縄文時代から受け継がれている漆の文化に
一度触れられてみませんか?




「日本産漆を支援する 壱木呂の会展」
伊勢丹新宿店本館5階 アートギャラリー
5月14日(水)〜5月20日(火) 最終日4時30分終了




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