Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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着脱自在

 
 

 去年の11月、数年ぶりにメガネを作り替えました。
 前につくったのは何時だったのか 思い出せないほどですが、訪ねたメガネ屋さんには 当時の記録がちゃんと残っていました。
 その店を知ったのは たぶん ある古武術研究家の方の文章だったと思います。どこまで見えるかという いわゆる「視力」に重きを置くのではなく、目に負担をかけず 身体が楽に見ることのできるメガネをつくってくれるところなのです。…と分かったふうに書いていますが、今回伺うまで その大切な“視点”を 私はすっかり忘れていたのでした。

 前回伺った時に 近くを観るデスク用のメガネ(*老眼鏡ではありません。念のため)と遠くを見るメガネ の2種類を作ってもらいました。でも 近くは「見える」ので 使うのはもっぱら遠くを見るメガネ、それも 普段はほとんど使わず、講義や旅行の時など 遠くの文字を見る必要に迫られた時のみ という状態でした。それが 昨年の後半あたりからでしょうか、パソコンを見る時に 目がとても疲れることに気づき デスク用のメガネを使い始めたのです。すると 目がかなり楽になりました。そうやってしばらく使っていたのですが、次第に メガネのフレームに頭が締め付けられるような感じが強くなり それはやがて不快感へと変わっていきました。
 メガネのフレームを変えよう と思ったものの、そのメガネ屋さんは ちょっと遠い場所にありましたから、なかなか訪ねることができません。ようやく 去年の11月に その方面へ行く用事ができたので 合わせて伺うことにしたのです。

 前回の検査で印象に残っているのは 私の心/意識の癖(と思われること)を 私の“物の見方”から解説してくれたことでした。そして今回も 視力の検査によって “その時までの私のありよう” についての気づきを与えてくれたのでした。

 一般的なメガネをつくるための検査は よく見えるかどうか という視点から 視力を矯正するためのものです。が、ここでの検査は 両眼の機能を考慮し 楽に見えることを目指します。そして更に 心と身体は密接に関わっているという立場から その人の持っているよきものをサポートする という視点が加わるのです。
 …というのが このメガネ屋さんのスタンスなのですが、実際の検査のどの部分が どれに相当するのかは、私には 分かっていません(苦笑)。ただ 今回の視力機能検査が まるで 精神世界のワークショップのように私へ作用したことは確かです。

 いろいろとメガネのレンズが変られていく中で 私は「怖いという感じ」「閉じ込められたような気がします」「自分じゃなくなるみたい」という印象を伝えました。(こういう反応を普通に受け止めてくれるメガネ屋さんも そう多くないような気がします。笑)そんなやりとりを幾度か繰り返すうちに 私の中の恐怖心がクローズアップされ 思わず涙がこぼれてしまいました。お店の方は そんなことが起こっても動揺することなく 私の涙が止まるまで見守ってくれ、そのあと「いまやっているのは 目が楽になるような調節なんだけどね」と おっしゃったのです。「(私が否定的な反応を伝える調節によって)身体は楽になっているはずなんです」。
 よく見えると 脳は満足しますが、身体がひずみを抱えている場合その負担は 大きくなります。私の場合 脳の満足度を優先させたことで ひずみのある身体に更なるひずみが生じ その現れのひとつが 乱視という眼の状態となっていたのでした。その状態を正しく認識しないまま 自己流の身体の調節で ものをよく見ようとした結果、不自然な“見る癖”がついていたようです。そしてその癖が あまりにも長く続き 私の意識が“不自然な状態”を“普通のこと”として捉えることに慣れてしまったので、本当なら身体が緩んでいる心地よい状態を 自分じゃなくなるみたい と思ってしまったようでした。
 おもしろいことに そういうやりとりをしながら 私の脳に正しい情報を与えていると 視力の測定値が良くなっていくのです。
 お店の方が言うには 私は かなり無理な力を使って ものをみていたとのこと。「しばらくは 頭がぼーっとするかもしれませんが デスク用のメガネを集中的に使ってみて下さい」とアドバイスを受けました。

 新しいメガネが届くまでの10日ほどは 以前つくったデスク用のメガネを つなぎとして、以来ずっと デスク用のメガネを かけ続けています。そして実際 最初のひと月は 額や顎や首や背中や仙骨などの凝りや内蔵の疲れが顕在化し やがて ほぐれていく というプロセスを リアルに感じることができました。 
 今回 視力機能検査をしてもらう数ヶ月前から当日の朝まで 徐々に 前頭葉にエネルギーが集中する傾向が強くなり 凝り固まっていく印象があったのですが、メガネをかけ始めた途端 それがなくなったのです。


 視力がよいからと言って 眼に負担をかけていないわけではありません。
 単に視力の検査だけで来た人が いわゆる視力はよいものの 眼や身体へに大きな負担をかけて ものを見ていることが分かり、デスク用のメガネをつくったところ それまで悩まされていた肩こりや頭痛がなくなった というお話を伺いました。

 考えてみれば 近くのものを見るようになったのは 人類の歴史の中ではつい最近のことです。生き物としての身体が それになじめなくても不思議ではありません。
 私たちはつい 見える 見えない というところに気を取られますが、大切なのは 現代の生活がいかに生物としての人の身体に大きな負荷を与えているかに気づき、それに対処する方法を採るということではないでしょうか。
 メガネをかけ続けていると眼が悪くなる と思っていた私は、裸眼で“見える”のなら裸眼のままがいい と考えていました。確かに 矯正視力のためのメガネなら そうかもしれません。しかし 身体の負担を減らすための 適切な道具としてのメガネなら、更に 心と身体を統合することをサポートするようなメガネなら、大いに使うべきなのだと しみじみ実感したのでした。

***

 人は 毛皮も牙もなく 生物として生存するための機能を どんどん手放す方向へ 進化してきたように思えます。どうして 人は生物としての機能を外部化してきたのだろうか という問いを どこかで目にしたこともあります。

 思うに、機能を外部化することで 人は (自身も含めた)変化する”動的な環境”に対応できるようになったのではないでしょうか。変化する環境や状況に対応できる道具を うみだす という智慧を持つことで。
 ただ 今は、適切な道具がまだ揃い切っていない のだと思います。
 メガネひとつにしても…。

 環境を固定し維持しようとするのではなく、変動する環境 変動する地球に柔軟に対応できる技術を目指す動きも 芽生えています。

 不要になったものを脱いで 必要なものを身につける…

 意識においても 物質においても…

 ひとは 合理的な(=理に合う)衣を 着脱自在に纏い続けることができる 初めての存在なのですね。

 
 










【加筆修正】

2024年2月8日(木)

 
 

ひとの創造性による仕組へ

 昨年末から日経平均株価が一万円を超え、「2013年から日本はバブル期に突入する」と言い続けてきた方の予測通りの展開になってきています。数ヶ月前には 地域によっては不動産のマーケットで売るものがない状況となり 既に“バブルのシナリオ”の幕は切って落とされていたようです。その方の見立てに拠れば、これから 2015年までに行われる日本郵政株式会社の株式上場ころまで 日本の地は バブルの舞台としての役割を果たす可能性が高いとのこと。それが、現在 世界の経済を動かしているパワー(=主体、意識)が 作り上げたシナリオであり、より広い視野で観るなら 善悪を超えた流れ(*必然ということではなく 選択の結果としての流れ ということです)として捉えることもできます。つまり、これからの2年ほどの間に 実体経済から大きく乖離して刷られた世界中のマネーが 日本に流れ込んでくるというのです。現在のシステムのまま そして現状の方向性のままなら、その大量のお金は 日本国内の格差を 更に大きく、おそらくは回復不可能なまで広げてしまうことが予想されます。

 その方の見立てが正しいかどうかは 今後の展開で明らかになっていくのでしょうが、もしも正しいとするなら、この “あらゆる方面から求められ用意された状況”を どう生かすのか が、私たち日本人に問われる「とき」が始まった とも言えるのです。具体的には、マネーを 通貨制度を “人を育む創造的なもの”に変えていけるか が、言葉を変えるなら 通貨がアイ(愛)のエネルギーとして機能するシステムをつくることができるか が、問われているのだと思います。
 仮に その見立てが正しくなかったとしても、現在の経済の仕組が 変わるべき時期に来ていることは 誰の目にも明らかです。

 社会の劇的な変動は 通常 社会の弱者に最もしわ寄せが行くことを考えれば、貨幣経済を否定することは賢明な策とは思えません。とするなら 通貨というものが まったく新たなハタラキを担うものとしてうまれかわることが望ましいのではないでしょうか。

***

 実態を持たないとされる“数字のお金”も 実は表に出ていないゴールドに裏付けされている という話を耳にすることがあります。仮にそうであったとしても ゴールドという 人の命や創造性を育むこととは無関係なモノを根拠にした貨幣制度は、少なくとも 未来への希望をそこに見出すことはできません。

 ちょうど一年前、ある方が 裏付けのない数字だけの「架空のお金」の総額が「34ケタになるとも言われている」と書いてあるのを目にしました。その後 その桁数が増えた記述もあったので 実際のところは把握できていないのでしょう。ただ、その天文学的な「34ケタ」という数字に見覚えがあったので調べたみたところ それは 宇宙創成時のインフレーションに関する数字でした。インフレーション理論では、インフレーション前の宇宙の大きさが 直径10のマイナス34乗cmであり、インフレーション直後には 宇宙は10の34乗倍以上の 直径1㎝以上になったとされます。ということは いま地球上にある 数字としてのお金は 文字通り天文学的な インフレーション規模のもの とも言えるのです。

 その天文学的な数字は ある意味では 未来の富を先売りした/先取りした と捉えることもできます。その架空の数字を 現状に合わせて 消去する というのが  一般的な考え方なのかもしれません。ただ、その「先売りされてしまった富」を 「予言された富」に変えることもできるのではないだろうか と、思ったりもするのです。

 具体的な方策は浮かばないそのアイデアに 少しばかりの可能性を感じたのは、「ある国の政府が 国民一人あたりにつき 一生涯の労働力を担保に 一定の金額のお金を刷っている」(*この真偽は不明です)という趣旨の記述を見たときでした。人をモノとしてしか見ていないその在り方に 未来は感じませんが、人という無限の創造性ならば もしかしたら天文学的な数字の裏付けとなり得るのではないだろうか と思ったのです。この宇宙が 天文学的な成長を遂げたように、人の創造性もまた 天文学的な成長を遂げることができるのではないだろうか と。現在(いま)という「とき」を ひとの創造性の創成期 と捉えるのなら、尚更 そう思えるのです。


 「先に振り出されてしまった富」転じて「予言された富」が 「実態のある富」に変わるまで、もしも本当に市場に出ていない“隠し金(ゴールド)”があるのなら それを裏付けにした 橋渡しのシステムをつくることができないものでしょうか。金本位制の過去に戻るのではなく、“人の創造性を裏付けとする貨幣制度”へつなぐための ゴールドを人の創造性の象徴として位置づける 金象徴制のシステムを。もちろん ゴールドを介在させることなく事を運べるなら それに越したことはありません。ただ これだけ 日本各地に様々な“隠し金”の言い伝えや噂が存在するということは それらの今日的な使い道がまだ残されているのかもしれないとも思うのです。




現場


『死の淵を見た男』を 昨日 読み終えました

途中 何度も胸が詰まり
一気に読み進めることができなかった 本でした

そして
読むことができて 本当によかったと
心から思える 本でした

「あの時、ただ何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか、その事実だけを描きたい」と行動を起こされた著者の方 そして その申し出に応じて取材に応じて下さった多くの方々に、また 言うまでもなく あの当時 現場ではたらかれた方々 と いま現在もはたらいて下さっている方々に、
ただ 感謝の気持ちしか ありません


今月の上旬
この本を読み始めた家人から
福島第一原子力発電所が 太平洋戦争末期に陸軍の校訓訓練基地として使われた「磐城陸軍飛行場」の跡地に建てられていることを伝えられた時、何とも言えない 土地が持つ因縁のようなもの あるいは 土地が持つ宿命とでもいうべきようなものを 感じました

だからなのかもしれませんが
本を読みながら
被災した原子力発電所で命をかけてはたらいて下さった方たちの姿が
映画『硫黄島からの手紙』で描かれた方たちの姿に重なっていったのでした


  何のために
  さしだされた
  いのち
  だったのか

  さしだされたいのちを
  そのごの
  わたしたちは
  ほんとうに
  いかすことができているのだろうか


いろいろ思い感じることはありますが
言葉にできません

ただ
もうこれからは
このような思いとはたらきをする必要がない世の中にしていきたい
現場が苦しむような世には したくない

それだけは
強く心に思うのでした



「原発に反対の人にも、逆に賛成の人にも、あの巨大震災と大津波の中で、「何があったのか」を是非、知っていただきたいと思う。」
という筆者の思いは そのまま 私の思いでもあり
少なくともあの3.11を体験した人には 読んでいただきたいと思う本です



はじまりに際して


昨日届いたメルマガにリンクされていた
Youtubeの “ブータン国王の国会での演説” の右側にずらりと並ぶ映像の中に
この映像を見つけました

もう既にご存知の方も多いかもしれませんが ご参考までに


友として 共に生きる
それは ひと に しか できないこと


このちにいきた おおくのひとたちが
また 先の大戦において闘った 少なからぬひとたちが
のぞんだ ありかた のようなきがします

  仮に この映像の内容が 誇張されたものであったとしても
  私たちに 大切なことを 思い出させてくれます


今日 ある場所で ある事を 行なっている 友人に
感謝しつつ…
 





 

memo




まつりごと

とは

場づくり


 

ともにいきるカタチーーひとのしくみへ

私が住む地域に 世界的な“市民工房のネットワーク”の拠点があることを、昨夜 家人が教えてくれました。そういえば少し前 元アキバ少年を自認する家人が やや興奮気味に そういうネットワークや場所があると話していたような記憶があります。
確かに 「個人による自由なものづくりの可能性をひろげるための実験工房」というキャッチフレーズは 魅力的です。
実際にどういう場所なのかを見るために 一度 工房を訪ねてみたいと思う一方、
なにか すっきりしないものが 私の内に横たわっていました。
そして ふたご座流星群が極大だったとされる夜が明けた 今朝。家人とその工房のことを話していたとき、私の中にあった違和感が少しずつ明確になっていきました。


上記の工房と同様に、まちづくりの分野でも あるいは他の分野でも 世界的なネットワーク活動が日本でも展開されており(*これは今に始まったことではありませんが…)、魅力的な内容のものが少なくありません。しかし どの場合においても なにかひっかかりを感じ、それらとは距離を置いてきました。
そのひっかかりとは たぶん (既存の)ネットワークというものに対する違和感なのだと思います。「素晴らしい活動を 世界に広げる」という啓蒙主義的な匂いを そして ひとつの枠に囲い込むような気配を その背後に感じるのでしょう。今朝気づいたこととは、それは一神教そのものである ということでした。ひとつのアイデア・概念を世界に広める という意味において…。それはまた 増殖のシステム/コピーの文化であり、創造性を育むこととは 根本において相容れないような気がするのです。私から見れば 本社ー支社(本部ー支部)という組織やフランチャイズなどの形もまた 一神教のカタであり、少なくとも これからの未来には ふわさしくないものに映ります。また 政党というものも(そしてもしかしたら“政党に基づく議会制民主主義”というものも) 私には古き世のシステムに思えます。
未来においては、決定権と責任を持った個々人が 臨機応変に協力してものごとを行なっていく社会であってほしいと思うのです。個人が組織やシステムに合わせるのではなく、随時 個々人をつなぎわたす仕組やカタチが生まれてほしいと願うのです。現在あるものでいうなら アライアンス(alliance)やチーム(team)というカタチが そのイメージに近いでしょうか。あるいは ミュージシャンや演奏家が 随時ユニットを組むスタイルが 最も近いのかもしれません。

この一神教的なシステム… いえ 一神教が群雄割拠しているとも言える多神教でもそれは同じことで 結局は「神のシステム」ということなのでしょう… 神のシステムは、提供する側の都合や論理が優先する 財やサービスの在り方にも反映されています。財やサービスなど社会の富は 個々人をベースに提供されるのが 本来の姿だと思うのですが…。
現在においてはコンピュータ関連の財やサービスがまさにそれで、使い勝手の悪さは言うまでもなく 使っている時にフリーズすることがあるような“不良製品”を 商品として販売しているのは、非常に不思議な現象です。

もちろん 技術が追いついていない という側面もあるのでしょう。
ひとの意識が成熟していない という側面もあるのでしょう。

あらたな世の 人と人との恊働のカタチがどういうものなのか、具体的な姿は まだ見えていません。ただ これまでのものの捉え方を超えなければならない ということだけは わかります。これまでのカタチや概念から抜け出して 自由にならなければ あらたなものは見えてこない ということも。つまりは 過去はもとより周りを見回しても 仕方がない、のかもしれません。

そんなことを考えていたら、「12月3日に ローマ法王ベネディクト16世が 世界政府と新世界秩序の設立を求めるスピーチをした」という記事を目にしました。
この6月にはヴァチカンのコンピュータ・システムにアクセスできる人物がヴァチカンから失踪した というニュースもあり、“失踪”は 死亡を意味することもありますが、いよいよ これまでの世が 神のシステムであったことが 誰の目にも明らかになってくるような気がします。

これまでの神に替わって 神の意識を脱した「ひと」が あらたなよのしくみをつくるときがきた ということなのでしょうか。
私には 来年の出雲と伊勢で行なわれる式年遷宮が その宣言の儀であるように思えるのです。もしそうであるならば、年が改まるまでの間に(*人によって「新年」の時期は様々でしょうが 遅くとも4月には どなたにも新年が来ていることと思います) 人は 神から卒業しなければならない ということになりますね。

来る2012年12月21日という日に対して 心穏やかでない方たちもおられるようですが、もしかしたら マヤ暦が意味するところは 神の世界の終わりであり、ひとのよの始まり なのかもしれません。




【コメント】

マヤ暦に関して 世界の終末を信じているように思われる人 また それを待ち望んでいるように思われる人 あるいは その時に他の惑星や宇宙から関与があると思っている人 など様々な方がいるようです。でも いずれも 神のシステムの思考パターンであり、自分以外の何ものかに自分の生を委ねた姿ではないでしょうか。




【コメント】(2012/12/17)

NASAが12月22日に発表予定だったとされる映像「Why the World Didin't End Yesterday」が予定より10日早く公開されたようです。




 

四百年の森

 

 

予てから訪ねてみたいと思っていた森に 先日 伺うことができました

「最も美しい森林は また最も収穫多き森林である」
という ドイツのアルフレート・メイラーの言葉を実践している林業家の方の森

針葉樹の人工林は 下草がなく 生態系が貧しい
というイメージが いっぺんに払拭されました

  広葉樹と針葉樹の保水機能には 差がないこと
  山の保水機能を担い 土壌流出を抑えるのは 下草の役割であること

  針葉樹の人工林にすると山が崩れやすいというのは
  その適地が もともと崩れやすい土壌であることから生じたイメージであること

  広葉樹にはコナラのように
  アレロパシー(他感作用)によって周りに下草が生えないものもあること

  などなど・・・・・

洞のある樹や倒木など商品価値がない樹々も 広葉樹と共に森林全体の生態系を豊かにするものとして残された森を、育んできた速水林業の九代目・速水亨さんに案内してもらいながら 歩いて行きました

その森では 243種類の植物が見つかっており
明治神宮の森の246種類と同等の 植物的豊かさを保有しています

昨年初めてお会いした時
生態系が多様であることは 病害虫の被害を抑えることができ 森林全体の健全性につながる、と おっしゃっていたのが とても印象に残っています


森を訪ねた日
屋久島と一二を争う降雨量があるその地は雨

前日までの晴天が続いてくれていたら という気持ちは
森のなかで 森に響く雨音を聴いているうちに いつしか消え去り
雨に濡れ 雨に煙る 美しい森を楽しんでいました


現在 百年の樹が育っている 速水林業の森
速水さんは 更に四百年の樹を育てることに挑戦しています

その「四百年の森」の構想が
二千年後の法隆寺の木材をどうするのか というある方からの問いかけに対する
速水さんの ひとつの応えであることを、
翌日の講演会で知りました

四百年
二千年…
途方もない時間軸のように思えますが、
責任ある社会の運営ということを考えれば できるかどうかは別として そのくらいのスパンで物事を捉える視野を持っていたいものです

  人が関わることで
  自然のままでは生まれ得ない多様性を創出することができる---

速水さんの本を読み 森を歩いていると
彼が行なっている森づくりが 本来の政治 本来のまつりごと の在り方と重なって見えてきます



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