Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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(全)体へかえることができる、ギリギリのところ







<この図は、こちらのページからお借りました>




ナショナル・ジオグラフィックのサイトに
“世界「人の影響が及んでいない土地」マップ、科学者が公開”
という記事が昨日アップされていました。


新型コロナなど未知のウイルスが人間社会を脅かす主たる要因の一つとして
ヒトが開発などのために
野生生物の領域へ侵入していくことが挙げらています。


都市など人間社会の多くは、
自然との媒介である体から遊離した脳が
体の外につくりだした物や人工システムで構築され埋め尽くされた脳世界であり、
その中で
生き物としての生命(力)は
消耗され続けています。


生き物としてのヒトには
(全)体としてのヒトには
ヒトが関与しない生き物たちの領域や自然が
必要不可欠です。


ヒトは
自らがつくったシステムによって
(特に経済システムによって)
世界中の自然を収奪し続けていて、
それは
それと地続き的に
結果的に
ヒト自らの存在に対しても行なっているのです。


冒頭の記事を見て、
「テンセグリティ構造では
その構造の半分が破壊されても
残った半分は元の形を維持できる」
ということを思い出しました。


この記事は陸だけについてだけで
地球表面の7割を占める海については語られていません。


いま
私たちは
生き物としての構造・あり方を維持できる
ギリギリのところにいる
ような気がします。




GENESIS 〜はじまり つくる〜

 セバスチャン・サルガドさんの写真は あまり得意ではありません、でした。世界の不条理や悲惨を伝える画像に向き合うには 相当なエネルギーが必要とされるため、ある時期から まるで義務のように観ていたそれまでの態度を変え 一定の距離を置くようになっていたから、というのが 直接の理由ではなく、どんな環境においても確かに存在している「人間の尊厳」を写していると評される彼の写真が あまりにも美しいことに、なにか 落ち着かないもの、しっくりしないもの、居心地の悪いものを感じてしまうからでした。

 とは言え、昨日 映画「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」を観た後に 自宅の本棚を探ってみると2冊の彼の写真集が出てきましたから、私にとって じっくりと見たくはないけれど手元に置いておきたかった とても気になる写真であり写真家だったのは間違いありません。

 今月の初め、美容室で 普段は手に取ることのないファッション誌をパラパラとめくっていたら アートのページにサルガドさんの名を見つけ、ヴィム・ヴェンダース監督とサルガドさんの長男のジュリアーノ監督がサルガドさんの映画を撮ったことを知りました。そして 数年前の彼の写真展で求めたパンフレットに記されていた 2005年に開始したプロジェクトのことを思い出したのでした。

 GENESIS…

 映画は、彼の生い立ちや家族に触れながら インタビューを交え 彼の仕事の軌跡を 「GENESIS」プロジェクトなど進行中の活動を含めて追っていきます。

 当然のことながら 彼を有名にした「世界の不条理や悲惨を伝える写真」を生んだ様々なプロジェクトが順次紹介されていくわけですが、私は 次第に退屈になり さらには居心地が悪くなって 席を立ちたくなりました。今日 改めて手元にある彼の過去のプロジェクトの写真を観ていて理解したのは、荘厳すぎるほど美しいその映像の中に秘められた 撮り手であるサルガドさんの怒りや悲しみのような割り切れない何か、被写体の本来持っている荘厳さや美しさと その身が置かれた環境の あまりにもはげしいギャップに、私は 耐えがたさを感じるのだ、ということです。

 そしてその亀裂や齟齬や居心地の悪さは、71歳になっても青年のような透き通った眼差しを持つ 撮り手であるサルガドさんの方が圧倒的に感じ取っていたわけで、数多の戦争や難民や虐殺の現場に立ち会った彼の 「もう限界だった。もはや人間の救済など信じられなかった。」という言葉が映画の中で流れた時 私は映像を通じて彼の苦痛をわずかながらでも追体験していたのだと 気づいたのでした。

 サルガドは様々な人類の歴史と対峙する中で、新プロジェクト「GENESIS」の主題を生命の根源[ルーツ]に求めた。それは、ルワンダだけではない、人類の悲惨な歴史や苛酷な日常の中で必死に生きようとする人間たちと出会って、作家自身が導き出した課題であり、次に向かう先であった。

 (略)

 サルガドはこれまで対峙してきた歴史と現実を再考するために、「GENESIS」プロジェクトへと向かった。「WORKERS」や「MIGRATION」などの作品を単なる過去の記録にするのではなく、現代や次世代の人々が未来へ向けて様々な角度から検証できるための人類共通の基盤として示されるのが「GENESIS」なのである。

【セバスチャン・サルガド写真展「AFRICA」のパンフレットの、丹羽晴美・著「生きとし生けるものの未来へー起源を探るセバスチャン・サルガドの写真」より】


 「GENESIS」プロジェクトの中で撮られた彼の写真は 私には何の違和感もありません。自然に 美しい と思えます。これまでの彼の写真とは異なり、どれも 愛おしい。安心して向き合え そこに映るものの中にあるいは向こうに 希望のようなものが感じられます。目の前の一枚の映像の 手前と向こう側とその奥に断絶がなく どこかへつながっているような落ち着きがあるのです。

 報道写真家が 対象を自然や動物に変えるのは、勇気が要ったことでしょう。これまで数多く撮られてきた ある意味取り尽くされているテーマとも言えますが、絶望を知っている彼にしか撮れないであろう作品が 生まれています。


 今回の映画で知ったことの一つが、彼が実家の農園で妻と始めたインスティチュート・テラ。サルガドさんが幼い頃は鬱蒼とした森だったところが いつの間にか荒地となり禿山と化していたのを、植林を続けて 現在は環境保護地区に指定されるほどの立派な森をつくりあげたのです。これは映像を見てもらいたい。あんなに荒廃していた土地が 人が適切に手をかけることによって これほどまでの豊かな生態系を持ち得る「現実」を ぜひご自身の目で見てもらいたい。

 妻のレリアさんが、「(この経験と知識は)みんなのものです」というようなことを話されていたのが とても印象的でした。

 サルガドさんの映画を見た後 その映画館がある施設の壁に貼られたポスターの文字が 目に飛び込んできました。

 「靑い種子は太陽のなかにある」

 寺山修司さんの劇作品のタイトルです。

 作品の内容は分からないものの、その一文が ずっと私の中で響き渡っていました。

 太陽…

 燃えさかる赤…

 大地を染め尽くしたおびたたしい血の流れ…

 躍動と狂気…

 カミュの『異邦人』の太陽…

 青…

 海の色

 空の色

 緑の色

 いのちの色

 その赤と青の対比が、サルガドさんの 絶望から希望への道のりのように 思えたのです。

 そして、「風の谷のナウシカ」の中で語られる 「その者 蒼き衣を纏いて金色の野に降りたつべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を清浄の地に導かん。」という“古き言い伝え”を 思い出しました。漫画版の「ナウシカ」は、焼け尽くした焦土に立つ 王蟲の体液によって青く染まった衣をまとったナウシカが、その言い伝えと結びつけられて終わるのです。

 GENESISの語源は インドヨーロッパ祖語の“gene-”(=to produce, give birth, beget)に遡ることができるようです。

 GENESIS/ジェネシス

 創生 創世 創成…

 はじまる はじめる

 つくる うみだす

 GENESISプロジェクトを 最初は 環境破壊を告発するものにしようと考えていたと、サルガドさんは映画の中で語りました。しかし 告発… アンチ… のなかには こたえがないことを 彼は十分知り抜いていたのでしょう。

 過去から 現実から 目をそらさずに、しかし その枠組みや地平から離れて、しかし 過去や現実とのつながりを断ち切ることなく、誰もが絶望してしまうような荒廃した土地を いのちの楽園にすることができる。

 インスティチュート・テラは その一例であり、サルガドさんの「GENESIS」プロジェクトは 荒廃した人の心や意識への 楽園をつくるための一本のあるいは何本かの植林のように思えます。あるいは、私たちに手渡された 未来への希望の種のようです。

 映画の原題は THE SALT OF THE EARTH

 地の塩

 聖書にある言葉です

 “光で描く人”フォトグラファーの人生を介して

 人は 地を浄める塩となりうる、意を込めたのでしょうか…

 彼の生まれ育った地域は、私がブラジルでその名を知る数少ない土地であり もっとも気になる場所の一つ。GENESISの森を訪ねることが、いつの日か彼の国を訪ねるときの楽しみとなりました。

【余談】

 奇しくも サルガドさんの最新のプロジェクトと同じタイトルの写真集を 処分したところでした。その本に収められていた写真は どれも「過去」。けっして抜け出せない過去の閉じた世界を写したもの。それを手放し 未来へ繋がる「GENESIS」へ出逢った、ということになります。


【余談その2】
 GENESISの森が 私の中で 「無限の庭」へとつながっていきます。
 そして その記事の中に記したRADICALの語源を見ると、GENESISの原義とつながっていきます。

2020 東京オリンピック


日本時間の本日、
2020年の夏季オリンピックが東京で開催されることが決まりました。

関係者の方々の努力とご苦労は 計り知れないものがあったと想像します。


様々な批判や反発を招いた 先日の東京招致委員会理事長の発言。
その反応は当然のものであり 為されて当然のことですが、
責任ある地位の方が 過失からそのような軽率な発言をするだろうかと 考えてみることも必要なのかもしれません。


それは これまでマスコミで「失言」として取り上げれ叩かれてきた発言(の幾つか)についても 言えるような気がします。


世の中には 目的を語ることによってその目的を達成できなくなるがために 語らずにものごとを進めていかなければならないことが 存在します。それは 時代や世間に叩かれ批判され誤解されたとしても 果たすべき役割というものがあることを意味します。


大きな流れの中で観れば 2020年のオリンピックが東京で開かれるという今回の決定は、日本という枠を超えて 望まれているシナリオの一つであった と捉えることができるようです。
しかし そのシナリオの内実をどのようなものにするのかは、偏(ひとえ)に 開催地である日本にかかっています。そしてそれは、敷かれたシナリオに従って生きるのか それらを超えて共に創って生きていくのか、の分かれ道でもあります。


オリンピックというものが その運営を含めてどのようなものであるのかを鑑みるなら、オリンピックが象徴しているシステムに対して 2020年までの間に 日本がどう応えるのか、ということを意味しているとも言えるのです。


これまでの 支配のシステムを続けるのか
あらたなよをつくっていくのか

神に僕として奉仕する 閉じられた永遠の循環をこれからも続けていくのか
自律したひととして生きる ひらかれた社会をつくっていくのか

その選択と思考が
日本に暮らすひとりひとりに 求められている、のだと思います。

シンプルであること 美しくあること

いま参加しているゼミの課題のために 500までの素数を数えていたのですが、
その過程で 思いがけない気づきがありました。

私は まず、
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 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
 …
という具合に、500までの数字を10個ずつの列にして書き出し、
次に、事前に教わっていた通りに 2の倍数 3の倍数 5の倍数… と、

値の小さな素数の順に倍数を消していきました。

その過程で、

2の倍数は 一つおきに縦のラインが消え、

3の倍数でも 視覚的に捉えられる一定の法則で 数字が消え、

他の素数にも 似たような法則性らしきものを観じるものがありました。

そのとき

一定のルールや法則のようなものを見つけたリ 見つけないまでも観じると、

嬉しくなっている自分がいたのです。

それは、

すっ と

何かが通ったことに対する 気持ちよさや嬉しさでした。

視覚的に 数字の固まりの中にラインが浮上すると

美しいと 思うのです。

ルールや法則性を発見することは 作業が簡単になり

脳の負担が減ることにつながりますから、

もしかしたら 私たちは、

脳の負担が減り 心身の負担が減ると、

気持ちよさや嬉しさや そして 美しさを観じるのかもしれません。

数学では 数式の美しさが求められる、という話をよく耳にしますが、

もしかしたら その美しさとは

脳の負担が少ない情報の回路であることを意味しているのかも…、
と思ったりもするのです。

その意味において

シンプルであること と 美しさは ほぼ同義であり、

シンプルであること も

美しくあること も

(宇宙の?)理に適っている と言うことができるような気がします。

また、今回の作業で気づいたのは

直線の美しさでした。

直線の道で区画された街は 私は美しいと感じないのですが、

曲線しかないように見える自然の中に

すっ と引かれた直線には

えも言われぬ美しさと爽快さを感じます。

(*例えば 建物のラインなど。ある温泉の半屋外の湯船から眺める 崖の自然を真横に一直線に区切った軒の伸びやかな直線は、いつ見てもほれぼれとしてしまいます。)

それは

今回の作業において、

数字の固まりの中に浮かび上がってくる 空白のラインを

美しいと感じたことと とても似ています。

「直線」というものは

人類の発明した ひとつの抽象、なのでしょうか。

私の記憶が曖昧なので 間違っているかもしれませんが、

前回のゼミで 「直線上の点と平面上の点は同じ数である」ことが証明されたと伺いました。もし そうであるなら、「直線」(の抽象性)は 美しい数式のごとくに思えます。

そして、さらにもう一つ。

脳のはたらきと関係しているであろう シンプルさや美しさというものを考えた時、『人間の建設』の中で岡潔さんがおっしゃっている「積木細工のような数学」は、美しくなく 理に適っていない、ように観じました。それは 岡さんもおっしゃっているように 数学に限ったことではなく、いまの文化が いまの社会のありようが 美しくなく 理に適っていない、のだと思います。

  岡   欧米人がはじめたいまの文化は、積木でいえば、
      一人が積木を置くと、次の人が置く、

      またもう一人も置くというように、どんどん積んでいきますね。

      そしてもう一つ載せたら危ないというところにきても、
      倒れないようにどうにか載せます。

      そこで相手の人も、やむをえずまた載せて、
      ついにばらばらと全体がくずれてしまう。

      今の文化はそういう積木細工の限度まで来ている
      という感じがいたします。(略)

      ともかく大学院のマスター・コースまですませなければ、

      1930年以後の、最近の30年間の論文は読ませることができない。

      言葉の意味を分からせるために、次々と体系を教え込むと、
      それくらいかかる。

      もうこれ以上ふえたら、しようのないことになりますね。

      決していいことだとは思いませんが、
      欧米の文明というものは、そういうものだと思います。

 (略)

  小林  数学の世界も、やはり積木細工みたいになっているのですか。

  岡   なっているのですね。いま私が書いているような論文の、
      その言葉を理解しようと思えば、

      始めからずっと体系をやっていかなければならぬ。

  小林  がちゃんとこわれるようになるのですか。

  岡   こわれませんけれども、これ以上ふえたら、
      言葉を理解するだけで学校の年限が延びますから、

      実際問題としてやれなくなるでしょう。もういまが限度だと思います。

      すでに多少おそすぎる。大学まで16年、さらにマスター・コース2年、
      18年準備しなければならぬ言葉を使って自分を表現している
      といったやり方を
これ以上続けていくということは、
      それがよくなっていく道ではない。

      もういっぺん考えなおさなければいかぬと思います。

 

 (P.29~P.31)


積木細工の文化とは、まとめることを放棄した文化 つまりは 脳に負担を強いつづけている文化、ということができるのかもしれません。

あるいは、思考を停止した文化 なのかもしれません。




【追記】(2013/08/24(土))


おそれることなく

人間が抱く 「はしわたすもの」や「移動するもの・移りいくもの」に対する畏れのはじまりであり根源は、死 ではないでしょうか。次第に年老いていくことも 歓迎しがたい変化ですが、それもまた 年老いた先に死が待っているがゆえの嫌悪や恐怖とわかちがたく結びついているように思われます。

中沢新一さんの『人類最古の哲学』の導入部分で、神話の語り方を考察する例として 人間が死すべき存在になった理由を語る コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの物語が挙げられています。また それと同じテーマを語る インドネシアやベネズエラの民族の神話が紹介されています。いずれも 死は 人間の愚かさのためにもたらされたもの、という描かれ方をしているように、はじまりの頃 死は歓迎されないものと認識されていたようです。その中で興味深いのは テネテハラ族の神話で、死というものを客観的に捉え 思考により死に対する否定的なものを乗り越えようとしている姿勢が見られます。

人は 生命は、個々のものが死すべき存在であるがゆえに進化し 変化し続ける環境に適応することができたわけですし、死は 「シ(=息、命)去(い)ぬ」が語源であるという捉え方もあるように 消滅ではなく通過点であるとするならば(*私はこの立場です)、死は決して否定的なものではありません。たぶん そのことは はじまりの人類も直観し 知っていたのだと思います。しかし その直観を確信しうるだけの脳の状態になるには まだ時間が必要であったため、人間は 神やあの世 そして宗教というものをつくって、(個となった存在を超えた世界についての)自らの直観を深く思考するための土台と安心を得ようとしたのではないでしょうか。

だからといって 人が死の恐怖から逃れることはできませんでした。

死に対する恐れや不安から ひとは無意識に 安定を求めます。

その意識が別の領域で現われると、移動して生活することへの恐れや不安や蔑視が生まれ、定住し安定することを望み是とするようになってくるように思われるのです。

『人類最古の哲学』の中に こんな下りがあります。

神話は宗教の熱狂からは距離を保っているように思えます。たしかにそれは、私たちから見ればずいぶんと非合理な論理を好むように見えますが、その内部に深く入りこんでみれば、非合理の水際に限りなく接近しながら、そこに溺れてしまうことはありません。どこまでも思考の力が働いて、神話を理性(理性という言葉を拡大して使うことにしましょう)の領域につなぎとめています。この特徴は国家というものを持たなかった社会で特に顕著です。国家の誕生は人間の暮らしに、ひとつの解決不能な不条理を持ちこむことになりましたが、それが出現する以前の、まだ人々が自分たちのつくっている社会のかかえる不条理を思考の力によって解決できると考えていた時代には、人間は神話によって、不条理の本質を考えようとしていたのだと思います。(P.26)

私は、ジェームズ・フレイザーもレヴィ・ストロースも また 中沢さんのカイエソバージュ・シリーズ以外の神話について書かれた本も読んでいませんが、冒頭に挙げた例から 私も神話というものが 思考によって不条理の本質を考える手段であったと観じます。

しかし、死への恐怖があまりに大きかった/大きくなったからでしょうか、思考によって問題を乗り越えるという(動的安定の)アプローチよりも 国家のような組織をつくることで得られる固定した安定を、どうやら人類の多くは選んだようです。(*神話的思考にある限界が生じ その次のものを人類がつくり得なかった、という側面もあると考えています。神話的思考の限界を乗り越えるために人類が生みだしたのが 一神教の神であり、認知の拡大と思考によってうまれる(意識の/論理の)跳躍を 一神教の神という“人から分離させた存在”が担った、と言うことができるのかもしれません)

考えるというおこない自体が、
異質な領域をはしわたし うつりいき かわりつづける もの。

  かんがえる ⇒ 間・換える  間・交える

死を受け容れらない意識は
考えることを受け容れることができないのかもしれません。

脳は 自由な環境が整っていれば 新たな創造にいどむようにできていて、その脳の働きを阻害する唯一のものが 恐怖である、という趣旨の文章を どこかで読んだ記憶があります。

恐怖によって固定を望む 私たちは、様々なモノコトを固定することで表面的な安心を得つつも 無意識に恐怖を連想し 様々な恐怖をつくりだしている、のかもしれません。また、動き変わり続けることが自然であるのに その理に反して固定する/固定されると 自動的に恐怖がうまれる、と言えるのかもしれません。

それは、恐怖から逃れるために作り出したものによって 恐怖に縛られている、という皮肉な状況です。何かから逃げ続ける限り 決してそれから逃れられない、ということなのでしょう。

人の中にある否定的な意識も、見方を変えれば、変わることを否定し 変わることを恐れ 現状に留まり固執する意識から生まれているように思えます。様々なネガティブな思いのなかに見え隠れする「私はわるくない」という意識は 思考停止の現状肯定(=現状固定)に他なりません。


はしわたすもの

別のブログに 神話における両義的存在としてのツバメについて 書きましたが、ツバメに限らず 鳥というものは そういう役割を与えられているように思われます。

七十二候は「古代中国で考案された季節を表す方式の一つであり、二十四節気をさらに約5日ずつ3つに分けた期間のこと」(Wikipediaより)で 「各七十二候の名称は 気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になって」います。

その中で 寒露(=10月8日頃)の次候は「雀入大水為蛤」(雀が海に入って蛤になる)であり、立冬(=11月7日頃)の末候は「野鶏入水為蜃」(雉が海に入って大蛤になる)。いずれも 中国の表現ですが 鳥が海に入って蛤になるのです。

自由に空を飛ぶ鳥の姿に わかたれたものをつなぐハタラキを 昔の人たちは観たのでしょうか。

古代の日本において 各地を遊行する非定住の漂白者たちは、現実の社会で わかたれたものを橋渡す役割を担っていました。具体的には 神と人間 生と死 などです。

漂白の民が担った芸能も そのオオモトは おそらく神事やその祓いだったような気がしますし、芸能自体に 時空を異化/転化させるはたらきがあります。また 死者にかかわることや屠畜も 死という“あちら側”と生の“こちら側”を 行き来するハタラキとして、特殊な能力を持つ人たちが担ってきたようです。そして これは推測でしかありませんが、移動すること自体が 異なるモノコトを橋渡すはたらきであり、日本の地を活性化する役割を担っていたようにも思えるのです。しかしそれが いつからか 畏怖が妬みや恐怖へと変わっていき 蔑まれるようになっていきました。

異なるモノコトをつなぎ橋渡すものであり それゆえに蔑まれてきたもの、ということから ふと浮かんだのが 貨幣です。
お金というものは 物々交換では起こりえなかったモノコトのあいだを 橋渡す役割を果たします。それはまさに異界をつなぐもの。
そして、その両義性ゆえに お金は 求められると同時に蔑まれてきたように観じるのです。

ツバメを嫌ったプラトン教団のように純粋化の傾向があるキリスト教において お金を扱うことは長らく卑しいこととされてきました。それゆえに お金にまつわる営みを 漂白の民であるユダヤ教の人たちに 担わせてきたのではないでしょうか。

私は、お金というものは 価値を換算するはかりではない と思っています。

そのモノコトに 注がれるひとの意識の流れであり、「いま」と「みらい」をはしわたすエネルギーのようなものだと 考えています。

融通無碍に動き回れる その移動性・その多義性が ゆがめられることなく人々に受け容れられ 生かされるならば、お金は 計り知れない豊かなハタラキを見せるのではないかと 思っています。

そのためには、まったく無関係に思えるかもしれませんが、移動や行き来すること あるいは変化すること 多義的なことの価値やはたらきを、見直し 評価することが必要なのかもしれません。そしてそれは、定住を原則とした今の社会を 根底から見直し つくりかえることにも つながっていくのかもしれません。

議会と首長


私の住む市では 近々 市議選が行われます。
告示の少し前から 選挙を意識した駅頭での活動がちらほら始まり、私などはそれによって選挙が近いことを知ったものです。

 

告示前から現在の選挙期間中を含め いくつかのビラを受け取りましたが、その中に一枚 違和感を覚えるものがありました。

それは確か 告示前に最寄り駅で配られていたもの。
一面には 次の市議選に出ることが明らかな数人の立候補者の紹介が載っており、裏には 現職市長の推薦の言葉が記されていました。

 

現在の地方自治の制度では 首長と議会を選挙民が直接選ぶ「二元代表制」を採用しています。革新的な首長が選ばれ 様々な改革を行なおうとしても 旧態然とした議会が反対して実現できない、ということも起こったりしますが、基本的には 行政の長である首長を 議会がチェックする「チェック・アンド・バランス」のシステムとして機能することを目指した制度です。とするならば、市長が 特定の立候補者を推薦し 議員になることを望むのは、チェックされる側がチェックする側に仲間を送る ということですから、地方自治のシステムの精神/在り方に反する のではないでしょうか。

 

ウェブで調べたところでは 「二元代表制は、沿革としてはイギリスの君主制、一元代表制において議員が首長を選出する仕組の中で腐敗が生じ、アメリカにおいて「行政と政治の分断」が議論される中で生まれた制度」とのこと。しかし 日本の地方自治のそれは、アメリカで生まれたものよりも 首長の権限が強く、“分立し独立した権力がチェックし合う機能”が働かない状況にあるようです。

 

その半生を 市民の立場から地方自治の在り方を考え変えていくことに注いできたある方は、「時間をかける」ことの大切さを説いておられました。“革新的な首長と 保守的な議会”という 分かりやすい図式を 私たちはつい好み、その分かりやすい図式の中で物事を理解し片付けようとします。しかし 一気に変える ということは、事前に相当な調えがなければ 大きくダメージを受ける人たちをつくりだすことになりますし、変えていく方向性ややり方が 適当でなかった場合に 修正する余裕というものがありません。「失敗できる」こと 「失敗を想定する」ことは、ものごとをデザインしたり ものごとを進めていく際に 不可欠な視点だと思うのです。
 

そこに暮らす人たちが 納得しながら ひとつ ひとつ 作り上げ 調え 変えていくのが 「自治」というものではないでしょうか。

決して 誰かの思い通りにする ことではなく。

決して 誰かの思い通りにしやすくする環境を つくることでもなく。

 

  おおやけ の ことがらについて

  どうやって考え 決めていくのがよいのか

  決めたことを どういうカタチで 現実化していくのがよいのか

 

地方自治のはたらきを活性化するために いま必要なのは、革新的な首長を選ぶことではなく、自治の在り方 自治のシステム 自治のデザインを見直すことなのかもしれません。

 

 

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