Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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その先へむけてあらたまる 出口


今朝届いていたメールマガジンに

「ある画期的な技術が 近々 実用化に向けて 某大学で試験される」旨が記されていました。

その技術の大まかなことについては 数年前に そのメルマガ発行者から聞いており、以来 ずっと 実用化を心待ちにしていました。

それは、
福島原子力発電所の汚染水の解決につながる ということだけではなく、
経済という流れの「出口」とも言える
廃棄物が 本当の資源になる可能性があるからです。


出口が詰まっている限り
泉の水がどれだけ豊かであろうと
それを あふれるまま 流れるままにすることはできません。
出口のない水は
破壊的な状況を引き起こしてしまいます。


現在廃棄されるものの量が適正とは 決して言いませんが、
経済活動には 排出され廃棄される物は つきものです。
私たちが生きる上で 掃除や排泄が欠かせないように…。

それを 資源へ変える取り組みは さまざまに行なわれていながら
資源化できないためにゴミとして処理しなければならないものは
いまだ圧倒的に多く、
その処理施設や最終処分場なる埋め立て地の確保が厳しくなっているために
多くの自治体では ゴミの減量化が 切迫した課題の一つでもあります。

私が住む地域でも 一つのゴミ処理場の土地の借用期限が切れるため、
ゴミを資源化する新たな処理施設の建設も検討されたものの
最終的には ゴミの有料化や戸別集配による減量化で
この難局を乗り切ろうとしています。
排出量に応じて費用を負担するという考えは理解できますが、
(ただ この考えを採用するなら 排水の汚染度によって下水道料金を変える、という主張も可能で、「サービス間の公正さ」が問われるかもしれません。最終的に目指すところは、各戸が 排水も廃棄物もオンサイトで(ある程度)処理できるシステムでしょうか…。)
戸別集配や記名となると 管理社会の匂いが一気に強まり
プライバシーと抵触してきます。



余計なものや不要なものを買わないようにしたり 利用しないようにするのは 望ましいことですが、ゴミを出さないために 経済活動を控える(*物の購買だけでなく、実はそれ以上に サービスの利用や移動によって廃棄物は生じます)、となると 本末顛倒に思えてきます。

問題なのは、ゴミとされたものが ゴミのままであること。
あるところで不要とされたものが この世の中で ずっと不要のままであること。
ものの流れが ひいては ひとの意識の流れが 滞っていること、
に他なりません。


     「出口」ではなく
     「再生する道筋」と言った方がよいでしょうか


理に適った流れをつくるには
“その流れに乗ったものが(その先に向けて)あらたまる” 技術やしくみが
必要です



冒頭の技術は
聞いている範囲においては そんな技術のひとつなのです


つらなり

 5月の末に、宮城県で自然栽培のお米を作っている方のお話をうかがう機会がありました。
 小学校教諭を辞し、「自分でも理由はよくわからないけれど 何かに背中を押されるように」有機栽培でのお米づくりを始めたUさん。ある年 トラクターが壊れてしまった為にぬかるんだままになった一枚の田んぼを無肥料で作付けしたところ、それまでの栽培では決して再現できなかった “幼い頃に食べた味”に近いお米ができたことが、無肥料栽培へ移行するきっかけとなりました。

 「うれしくて うれしくて うれしくて」

 なかなか収穫量が上がらない時期を経て ようやく充実した実りの秋を迎えたときの気持ちを、Uさんはそう表現します。

 「地球とつながった という感覚があって…」

 徐々に育ってゆく稲を支えるように、大地から 目には見えないエネルギーのようなものが 伸びていっている印象があったと言うUさんは、そのイメージを手を使って示してくれました。一方の手は 籾から苗になり稲穂が垂れてゆく稲の動きを現わしながら上弧を描き、もう一方の手は 稲を支える不可視のエネルギーの動きを現わしながら下弧を描き、同じ場所からわかれて弧を描いていった両の手は やがて 反対側の一点で出合います。
 太陽と水と土と風だけで稲が育つ場に居合わせ 目の当たりにしたUさんには、自分の 米づくりといういとなみが 地球とつながり 自然な循環の中にあるように思えたのです。

 「田んぼ」という小さな場でつながった 様々なはたらきといのち。
 その話を聞きながら 私は、同じ宮城県で 山に植林をしている牡蠣養殖業者の方の話を思い出していました。

     豊かな海を取り戻すには
     豊かな森と川と
     流域に住む人たちの豊かなこころが 必要

 更に広い視野で観れば、森から湧き出る水は 海から蒸発し 大気を通って 山に降り注ぐものから生まれます。そして それらは田畑にも注がれ 田畑を通って 川へ そして海へ そして空へとめぐってゆきます。すべては地球のいとなみと分ちがたく、いえ 地球のいとなみそのものとして…。
 通常 そのつながりは「循環」と呼ばれますが、閉じた環をめぐり続ける印象を受けるその言葉よりも


未来へと続く 途切れることのない ひとつらなりの流れ

と言った方が 私にはしっくりきます。
 それは 物理的な場だけでなく、生産と流通と消費(*本当はこういう分類は使いたくないのですが 便宜上ここでは使わせていただきます)というような、人と人の関係や意識の場においても在りうるもので、また なくてはならない大切なものだと思うのです。

生を活かす


「いのち」と題したブログのコメントで 生活者 という言葉に触れました。

 生を活かす と いうことを考える時 わたしには

          進化し続ける流れ

の イメージが浮かびます。


 具体的に言えば 私にとっては いま応援している農がそれに当たります。おいしくて身体が喜ぶ野菜たち というだけに留まらず、その農のハタラキによって 土が浄化されてゆくという理解があり さらに そのあり方は 世界中どこでも実践可能であるという普遍性を持っていて しかも 自然という顕われの背後にある「理」を見据えようというベクトルを有しています。それは 滞りなく また 一定の閉じられた範囲内を循環しているものでもなく、どんどん進化してゆく(可能性が感じられる)流れ です。その流れの中では 少なくとも私には 生産者とか流通業者とか消費者という分断はなく 同じ流れを行くもの という 同志のような 仲間のような意識があります。仮に 将来 その農のやり方が変わったとしても あるいは 別の名称になったとしても 大きな流れ自体は変わらないと思える ものなのです。

 昨年ご縁のあった林業家の方は 400年の森 をテーマに 林業家としての森づくりをしています。私はまだ伺ったことはないのですが その針葉樹の森は 多様な生態系を保持していることで有名です。
 食べ物の場合 環境に負荷を与えない 自然に順応し 未来への責任を担った方法で育てられたものは 品質としても優れている傾向がありますが、木材の場合は その方のような森づくりをしているところから出たものより 違法伐採した原生林からのものの方が 品質的には優れていたりすることも起こりうるわけです。もちろん 感受性がものすごく鋭敏な方は その伐採過程のエネルギーまでも感じ取ることができるかもしれませんが、通常はそこまでをエンド・ユーザーに求めるのは難しいのが現状です。だから この分野においては ものがよければいい という視点だけでは 未来への責任を果たせません。そのために 森林認証制度などがつくられているわけですが それもまた 進化し続ける流れ を作る ひとつの試みだと思います。
 彼の森は たとえば 倒木をそのままにしておくなど、短期的な狭い視野で見れば 効率の悪いこともしています。でも 多様であることが豊かであり その豊かさこそが強さである と言うのです。

   もっとも美しい森林は もっとも収益高き森林である

 というのが 彼の持論。
 きっとその森は 今の私たちが想像できうる以上の美しさを 将来 備えてゆくのではないでしょうか。

 そんな 進化し続ける流れ を この世の中につくること。
 それが 真の豊かさ であり 真の富 ではないだろうか と 感じています。
 それが 生活 であり 生活者 ではないだろうか と思うのです。




【コメント】
 自然栽培においては、農に携わる方の意識の変化に応じて 土が大きく変化する ことを、複数人の方が体験しています。このことが ある種の法則であるのなら その理が明らかになってゆくのが とても楽しみです。



イの流(ち)


 カナダのユーコン準州に住んでいる 知り合いのカメラマンが、この連休 帰国して京都で写真展を開きます。先ほど訪れた彼のブログで 改めて見た個展のタイトルは 「Northern Life 極北の生命 ーWILD SHEEP COUNTRYー」。
 “生命” という文字に反応し、わたしが 彼の写真のなにに惹かれるかの理由が わかったような気がしました。そして、過去記した文章で 自身のブログにアップしたいと思いつつ未だできていないものの中から いのちに関するものを アップしておきたくなりました。
 ということで 今年の2月6日に書いた文章を 以下 転載します。

たらちねの ははそ



台風のような強風が吹き荒れた昨日
電車が止まって帰れないかもしれないと思いつつ、
NPO法人「森は海の恋人」の理事長をとつめる畠山重篤さんが 国連森林フォーラム(UNFF)からフォレストヒーローとして表彰されたことを記念した講演会へ 行ってきました。

畠山さんのお名前とその活動の概要は知ってはいましたが
お話を伺うのは初めてのことでした。

豊かな海を取り戻すには
豊かな森と川と
流域に暮らす人々の豊かな心が必要


牡蠣の養殖業を営みながら
気仙沼湾に注ぎ込む大川の上流に植林を続けている 畠山さんの活動は、
森と海とつなぐ ひとつらなりの流れをつくり育もうとするものです。
それは この「地球の循環」という流れの一部として
人の意識と営みを捉えていこうとするものです。


昨夜の話の中で印象に残ったことのひとつは
現場で伝えてゆく そのあり方
でした。

手長野(てながの)に木々はあれども
たらちねの ははそ(柞)のかげは
拠るにしたしき


「森は海の恋人」
というキャッチフレーズは
郷土の歌人・熊谷武雄さんの この うた を始まりとして
熊谷氏のお孫さんが詠まれた うた から生まれたのだそうです。


今回 NYの国連本部での授賞式へ行くにあたり 手みやげとして
畠山さんは 自ら手がけた絵本を翻訳したのですが
この「森は海の恋人」という言葉に託したものを どう英語で翻訳するか悩んだといいます。そして ある経緯により
美智子皇后から long for という言葉が届けられました。

その後 畠山さんは その言葉を 旧約聖書の詩編の中に見つけます。
(*訳によっては yearnを使っているものもあります。)

慕う(したふ) というニュアンスを持つようです。


The forest is longing for the sea,

The sea is longing for the forest.


森は海を 海は森を 恋ながら
悠久よりの愛つむぎゆく

熊谷龍子




ものごとの順番

先ほどアップした記事と関連する 以前記した文章を、
内容的に重なる部分はありますが 参考までに載せておくことにします。
2012年2月21日の文章です。

意識の流れ:「決める」ということ

  「2色しか知らない人がその2色で描く絵と
   100色知っている人がそのうちの2色を選んで描く絵では
   同じ2色を使ったとしても まったく違うものになると思うの」

という ある方の言葉を このごろ折に触れ思い出します。

   使えるけれど 使わない
   できるけど やらない

それは 自らのありようを決める ということです。

***

福島での原子力発電所の事故は 解決の道筋が見えないまま ある種のこう着状態が続いています。そして そんな不確かな状況のもと 現場で命をかけて最善を尽くしている方々がいます。
原発を利用する社会から脱していこう という意識が高まりを見せつつ、しかし一方では 従来の社会システムを保持するべきだという意識が 一度は原発を手放したいと思った方たちの間でも芽生えているようです。

そんな中 私がふと思ったのは、
放射性廃棄物が問題なく処理できる技術を私たちが手にしたとき
原子力発電所をめぐる世論は どうなるのだろうか
ということでした。
放射性物質の危険性という“現実”を思えば そんなことを問うよりも
被災した炉や廃棄物に対応できる技術がまず必要で
それから先のことは そのとき考えればいい、
という反論が投げかけられるのは百も承知の上で…。

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