Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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「かんがえる」をはじめる

私たちにとって
自分を取り巻く環境とは どういうものなのか
それは どうあってほしいのか

私たちがつくる社会が
より望ましいものに
なるように
かんがえることをはじめるのに
新国立競技場の問題(=問い)は
うってつけのケーススタディのように思えるのです


私たちが意識を向ける先に向けて
流れは うまれはじめます


2014年5月12日(月) 「シンポジウム 新国立競技場のもう1つの可能性」

戦争をしないという意志

今日、
日本国憲法の第9条がノーベル平和賞の候補として受理された
ことを知りました

推薦状を贈った
市民団体「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会
9日の夜 その旨の連絡が入ったとのこと

もし受賞した場合
その受賞者は「日本国民」となるそうです

当団体では 現在 受賞に向けて署名を募集中


共有する:コミュニケーション

今日 家人から送られてきたメールで、
台湾で学生が立法院を占拠していることを知りました。
IWJの報道によれば、強制排除を経た今も 占拠は続いているようです。

争点となっているサービス貿易協定の問題点や占拠という方法に対する検討は いまの私にはできませんが、「民意を反映した審議をしてほしい」という意志はおおいに理解できます。

まさに 私はいま 新国立競技場の建設に対して、そのような意志を抱き続けているのです。


新国立競技場の問題に気づいたのは、建築家の槇文彦さんが2013年8月15日発売の『JIA MAGAZINE 295』に寄稿した「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」を受けてイベントが開かれることを 家人から知らされたときでした。
ここ10年は媒体を問わず マスメディアの情報にはあまり触れていないので、私は その時まで このようなことが進行していることを知らずにいました。
仮に 報道に接していたとしても 最終案に対する疑問は浮かべど 槇さんが指摘されているような問題には 気づけなかったと思います。今回のコンペ及びそれによって選ばれた最優秀案についての問題点は 先述の論文で槇さんがわかりやすくまとめて下さっていますので、是非ご一読ください。


10月11日に行なわれたイベントには 定員を大幅に越える参加者が訪れ、数カ所のモニター会場が設けられました。その後 メディアでの報道や市民の動きなどが活発化していき この問題への人々の関心の高まりが感じられます。が、それらの問いかけに対して 問いかけられた側からの応答は得られていません。
昨日アップしたブログの記事に基づけば 問いが適切ではないから とも言えるのかもしれませんが、今回のコンペのサイトには 次のようにはっきりと書かれているのです。



私たちは、
新しい国立競技場のデザイン・コンクールの実施を世界に向けて発表した。
そのプロセスには、市民誰もが参加できるようにしたい。
専門家と一緒に、ほんとに、みんなでつくりあげていく。
「建物」ではなく「コミュニケーション」。
そう。まるで、日本中を巻き込む「祝祭」のように。


見直しを求めている建築家の方たちの反応を見る限り 専門家ともコミュニケーションが行なわれていなかったと判断せざるを得ませんし、市民に対しては 疑いのないところです。

自分が住む土地の風景が変わるだけでも わが身の延長として 人は敏感になります。そして 日常的に接する土地でなくとも 大切にしたい場所があります。

新国立競技場が 湾岸などの別の場所に建てられるものであったとしても問題はありますが、今回 多くの人がこのことに関心を持つのは やはり神宮外苑という土地によるものが大きいのではないでしょうか。

私は 今回のことで、自分が 神宮周辺の土地を大切にしたいと思っていることに気づきました。それは天皇や天皇制や神道や神社といった個々の存在を越えて、まさに そういうものを存在たらしめている「場所」そのもの に対するもの。
平たく言うなら、都内で私がもっとも好きな空間が 表参道から神宮周辺にかけての土地であり、その土地が 好ましくない方向へ変わってほしくない、より良くなってほしい、という思いです。
コンペの最優秀案がつくられるなら 間違いなく (私が感じている)あの一帯の空間の心地よさは激減してしまうでしょう。


昨年の12月12日に行なわれたシンポジウム「神宮の森・これまでとこれからの100年ー鎮座百年記念・第二次明治神宮境内総合調査からー」も、急遽 補助椅子が用意されるなど 多くの人が訪れ、神宮の森に対する関心の高さが伺えました。
私も 神宮の森が大好きです。

槇さんが論文の中で触れられている『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』を読んで、あの原生林のような内苑の森が 人の手によって一からつくられたことに思いを馳せ、その森と合わせて外苑がつくられ 両者によって神宮というひとつの場所であることを考えると、そもそも外苑を新国立競技場の候補地にしておいて良いのか ということさえも含めて 検討したくなります。

10月のイベントで、既存の緑地を結んで 東京に緑の回廊をつくろうとしている動きがあることを知りました。緑の回廊は 地上と地下の水の回廊でもあります。

森という 自然のひとつのまとまりは、人にとって 特に都市に暮らす人にとって、現在自覚されている以上に大切で重要なものではないだろうかと、このところ 強く観じるのですが、その“森という自然”は 森の場所で完結するものではなく、まわりとも関わり 混じり合って 存在するものです。(*森に限ったことではありませんが。。。)


ヒトの存在 ヒトの在りようを考えると、
脳と身体はつながっており
身体とそのまわり つまり環境は つながっており、
ヒトがヒトとして その可能性を開花するには
取り巻く環境の質が大きく関わってきます。

     建築や風景や環境は
     私たちヒトの身体の一部とも言えます

コンペのサイトの文章ではありませんが まさに
建築とは 「建物」ではなく「コミュニケーション」そのもの
(をつくる行為)
なのだと思うのです

     そこに生きる“ひとつの自然”としてのヒト と
     コミュニケーションするもの

communicattionの語源は ラテン語のcommunis(共通したもの) あるいはcommon(共有物)と言われています。つまり 共通・共有するもの。
建築は まさに その社会に生きる人たちの 存在のコミュニケーションを担うものに他なりません。そして そのコミュニケーションには、いま生きている人だけではなく 過去生きていた人たちも含まれる…、少なくとも 過去生きてきた人たちをないがしろにしないことが 求められるように思えます。

     誰かが 変えていく 社会ではなく
     みんなで 変わっていく 社会へ…

そのためにも コミュニケーションが必要なのです。
そしてそれは いまから始めることができるのです。





専門も分野も異なる造営者たちが一つの舞台に集い、
真正面から向き合って理想を闘わせることができたからこそ、
ひとつながら多重な魅力が混然一体となった、
明治神宮という磁場の求心力が形成されたのではなかったか。
本書の冒頭で、
明治神宮の「伝統」とは創る伝統にこそあるのではないかと私論を述べたのは
このことである。
ここで筆者がいう伝統の創造とは、
過去に遡って装飾しようとすることではなく、
むしろ今に向き合うことで未来のための拠り所を築こうとする営為のことだ。
画家寺崎武男は、国史絵画の創造を夢見てヴェネツィアから
「世界的な日本を描こうよ」と声をあげた。
同時代と次代に向かって発せられたそのような造営者たちの真摯な呼びかけは、
「未来」を生きる私たちに確かに届いたと筆者は信じるものである。

(『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』P.316より)





【参考まで】

*槇文彦さんの論文「それでも我々は主張し続ける」(JIA MAGAZINE 301

2020-TOKYO 神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会
昨夜行なわれたこの会による公開勉強会で 建築学科の学生が発表した案の一つが とても素晴らしかったと、家人が話してくれました。
(個人的には、最終審査候補作品の中では あらたな森をつくる「作品26」が気に入っています。)
コンペには新しい才能を発掘し育てる役割もあるように思うのです。


その先へむけてあらたまる 出口


今朝届いていたメールマガジンに

「ある画期的な技術が 近々 実用化に向けて 某大学で試験される」旨が記されていました。

その技術の大まかなことについては 数年前に そのメルマガ発行者から聞いており、以来 ずっと 実用化を心待ちにしていました。

それは、
福島原子力発電所の汚染水の解決につながる ということだけではなく、
経済という流れの「出口」とも言える
廃棄物が 本当の資源になる可能性があるからです。


出口が詰まっている限り
泉の水がどれだけ豊かであろうと
それを あふれるまま 流れるままにすることはできません。
出口のない水は
破壊的な状況を引き起こしてしまいます。


現在廃棄されるものの量が適正とは 決して言いませんが、
経済活動には 排出され廃棄される物は つきものです。
私たちが生きる上で 掃除や排泄が欠かせないように…。

それを 資源へ変える取り組みは さまざまに行なわれていながら
資源化できないためにゴミとして処理しなければならないものは
いまだ圧倒的に多く、
その処理施設や最終処分場なる埋め立て地の確保が厳しくなっているために
多くの自治体では ゴミの減量化が 切迫した課題の一つでもあります。

私が住む地域でも 一つのゴミ処理場の土地の借用期限が切れるため、
ゴミを資源化する新たな処理施設の建設も検討されたものの
最終的には ゴミの有料化や戸別集配による減量化で
この難局を乗り切ろうとしています。
排出量に応じて費用を負担するという考えは理解できますが、
(ただ この考えを採用するなら 排水の汚染度によって下水道料金を変える、という主張も可能で、「サービス間の公正さ」が問われるかもしれません。最終的に目指すところは、各戸が 排水も廃棄物もオンサイトで(ある程度)処理できるシステムでしょうか…。)
戸別集配や記名となると 管理社会の匂いが一気に強まり
プライバシーと抵触してきます。



余計なものや不要なものを買わないようにしたり 利用しないようにするのは 望ましいことですが、ゴミを出さないために 経済活動を控える(*物の購買だけでなく、実はそれ以上に サービスの利用や移動によって廃棄物は生じます)、となると 本末顛倒に思えてきます。

問題なのは、ゴミとされたものが ゴミのままであること。
あるところで不要とされたものが この世の中で ずっと不要のままであること。
ものの流れが ひいては ひとの意識の流れが 滞っていること、
に他なりません。


     「出口」ではなく
     「再生する道筋」と言った方がよいでしょうか


理に適った流れをつくるには
“その流れに乗ったものが(その先に向けて)あらたまる” 技術やしくみが
必要です



冒頭の技術は
聞いている範囲においては そんな技術のひとつなのです


2020 東京オリンピック


日本時間の本日、
2020年の夏季オリンピックが東京で開催されることが決まりました。

関係者の方々の努力とご苦労は 計り知れないものがあったと想像します。


様々な批判や反発を招いた 先日の東京招致委員会理事長の発言。
その反応は当然のものであり 為されて当然のことですが、
責任ある地位の方が 過失からそのような軽率な発言をするだろうかと 考えてみることも必要なのかもしれません。


それは これまでマスコミで「失言」として取り上げれ叩かれてきた発言(の幾つか)についても 言えるような気がします。


世の中には 目的を語ることによってその目的を達成できなくなるがために 語らずにものごとを進めていかなければならないことが 存在します。それは 時代や世間に叩かれ批判され誤解されたとしても 果たすべき役割というものがあることを意味します。


大きな流れの中で観れば 2020年のオリンピックが東京で開かれるという今回の決定は、日本という枠を超えて 望まれているシナリオの一つであった と捉えることができるようです。
しかし そのシナリオの内実をどのようなものにするのかは、偏(ひとえ)に 開催地である日本にかかっています。そしてそれは、敷かれたシナリオに従って生きるのか それらを超えて共に創って生きていくのか、の分かれ道でもあります。


オリンピックというものが その運営を含めてどのようなものであるのかを鑑みるなら、オリンピックが象徴しているシステムに対して 2020年までの間に 日本がどう応えるのか、ということを意味しているとも言えるのです。


これまでの 支配のシステムを続けるのか
あらたなよをつくっていくのか

神に僕として奉仕する 閉じられた永遠の循環をこれからも続けていくのか
自律したひととして生きる ひらかれた社会をつくっていくのか

その選択と思考が
日本に暮らすひとりひとりに 求められている、のだと思います。

森が想い出させてくれるもの:調和のデザイン


先日 東京駅の近くで人と会った帰りに、丸の内北口改札のドームを通りました。

改装後の あまりの人の多さに、綺麗になった東京駅をゆっくり観ることもなかった私は、この日初めて 東京駅の空間を意識して体験したと言うことができるのかもしれません。

そのドーム空間の心地よさに
私はしばらく ドームの真ん中で佇み、上を見上げたり 通り過ぎる人を見たりしていました。その心地よさは かつて他の場所でも観じたことのあるものでした。なつかしさのようなものと 清々しさと まだ見ぬ景色が交錯するような一種の高揚感と 風のように縦横無尽に通り抜けるなにかと そういったものが醸し出すあっけらかんとした開放感と…。目の前を どこかから来て どこかへ行く人たちに、わけもなく愛おしさを感じます。
それは、NYのグランド・セントラル駅でも観じたことがあるものでした。

どちらもドーム天井の空間。

その中を 不特定の人が移動する“さま”が、
私には そういう「けしき」を抱かせます。

そして いつしか私は、
自分が旅をしていなくても 旅する自由な風に存在を洗われて、
忘れていた大切な何かを思い出すのです。




<東京駅のドーム
こちらのサイトからお借りしました>



<同じく東京駅のドーム
こちらのサイトからお借りしました>

ドーム天井と言えば、教会やモスクを思い出す方が多いでしょうか。

ある林業家の方は ヨーロッパの教会に入ったとき、「これは森を現わしている、森の建築だ」と思ったそうです。

建築の世界ではどのように捉えられているのかは知りませんが、確かに、

アーチ型の天井は、森の中で見上げたときの 木々に包まれている感じや 樹冠から垣間見れる空に よく似ています。天井の上部や壁に置かれた採光窓やステンドグラスは、木漏れ日のような柔らかで幻想的な光を 内側の空間に注ぎます。

ドーム天井を持つ空間というのは、もしかしたら 人が人となる前の森の中にいた時の記憶に突き動かされて つくられたものなのかもしれません。

しかし 私は、教会やモスクの中では たとえ建築的にどんなに素晴らしいドームであっても、冒頭のような心地よさを感じることはないのです。たぶん 宗教が持つ闇のようなものを観じてしまうからなのでしょう。

宗教施設の中では 私は 風を観じられないのです。

ドーム天井でなくても、駅や空港など 旅の拠点となる場所では、似たような感慨に包まれることがよくあります。駅や空港でなくとも 交差点や道路を不特定の人が通り過ぎる様を眺めているときにも 同じようなことが起こります。しかし、その要素に 森を写した(のかもしれない)ドームの空間が重なると、全身が感応するほどの何かを観じるのです。

  森の記憶が蘇るのでしょうか。

  森の記憶と深く結びついているDNAが活性化するのでしょうか。

たぶんそれは、“かつて 調和の中にあって そこに流れていく何かを感知していたセンサーや感覚”が 刺激されるからのような気がしています。

ことなったものたちがつくる世界に身を置きながら ひとつであった、

それを体験として知っていた

あの感覚が…

それを 私は「風」として認識するのかもしれません。

そんなことを考えていたら、
『人間の建設』の中の岡潔さんの言葉を思い出しました。(P.108)


【集まルーズ】file02:漆の山から広がる未来


この7月の終わり 小田原に原田陽輔さんを訪ねました。

原田さんと出逢ったのは 2011年1月におこなわれた漆サミットでのこと。

国産漆の国内最大の生産地である浄法寺で漆掻きの研修を受け 小田原の山に漆を植えていると知り、その活動に大いに共鳴したのです。当時は 私が住む地域の保全緑地にある漆の木の活用についても相談を受けていらっしゃっいました。

その後 漆の山を訪ねたいと思いながら なかなか機会を作れずにいたのですが、
今回 「集まルーズ」という場を得たときに 訪問先としてすぐに浮かんだのが原田さんでした。

現在 日本で流通しているの95%以上が 中国産を主とする輸入漆と言われています。

国産漆と外国産漆を比べると 漆の主成分であるウルシオールが最も多く含んでいるのは日本の漆であり 質が良いのは日本の漆のようなのですが、実感できる品質の差よりも 価格の差の方が大きいからでしょうか 国産漆の流通量は減りつづけてきました。[余談:現在進行中の日光東照宮の立て替えでは 前回使った中国産漆の劣化がひどかったため、高価でも今回は国産漆を使うことになったようです。]かろうじて残っている漆の産地でも 漆掻きの職人は高齢化していて、いつまで国産の漆を使うことができるのか、と危惧されてもいます。そんな現状を受けて 未来へ漆をつなぐために始まったのが 浄法寺での漆掻きの研修や漆職人の育成です。また、漆器作家の中にも 自ら漆を育てる方が出てきています。 

そして 今回訪ねた原田さんもまた そんな漆器作家のひとりなのです。

浄法寺から戻って実家で漆器作家として活動していた原田さんは 小田原の漆器作家さんと知り合い、その方のつながりから 現在漆を植えている山を紹介してもらうことができました。

漆の木は10年ぐらい経たないと 漆を掻くことができません。

今年は漆を植え始めて3年目の夏です。




<植樹後3年経った漆の木>






<漆の葉にも漆の樹液が。
主脈の切断面が乳白色になっているのが分かるでしょうか。>






<漆の木の生命力は旺盛です。

ここは 漆の苗をまとめて植えていた場所。

漆の苗はすべて他の場所へ移植したのですが、

根しか残っていないはずの土地に 新たな漆の木が繁茂していました。>


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