Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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みずから うちから

他者が

教えるのではなく

「教え」を与えるのではなく



自分の中から

気づくように

「気づき」がうまれるように



他律的ではなく

自律的 内発的にいきるように



つくる







土 つ く り



体 つ く り


庭 つ く り


人 つ く り


家 つ く り


町 つ く り


国 つ く り


チ つ く る






あらたな現実


大切なのは
説得
ではなく
納得

小さくても
確実に
着実に
淡々と
あらたな現実をつくっていくこと

やがて
確かな点が つながって
線となり
面となり

一千年後の社会を
実感を持って考えることができ そのスパンで動く人たちは
流れの詰まった大地に穿つ 空気孔

理にかなっているならば
必ずや
地中の空気は流れ出す

すべてかがやく



 昨年出逢った「引き出す」ものの一つに 髪や肌の分子や遺伝子の情報を引き出す技術がありました。髪や肌が元来備えている情報を引き出すことによって 持てる能力を発揮させ 状態をより良く快適に整える、というアプローチです。ここにおいては、「美」が 内側にある可能性を引き出すこと/可能性を開示することと同義になりつつあります。

 そもそも私がカラダに再び興味を持ったのが、「思考を外部化する」「脳を外部化する」ための模索がきっかけでした。意識というものの本拠がカラダであり、カラダという場を介して果てしない外の世界に触れ 情報のやり取りをし 相互に作用し合っていることを考えると、私たちがカラダの場を更にフルに生かすならば これまで想像も及ばなかったほどに 思考や創造を展開していくことができるのではないだろうかと、思えるのです。(その意味において、髪や肌という “外界と接する最前線”かつ“最も「現在」に接している場”の状態がより良くなることは、とても重要なことだと考えています。)

 そして、昨年の出逢いによって 私の中では、「人が持てる可能性を発揮する」ことにおいて 医療と健康と美容(*この3つは カラダの場を育む意としての「体育」の領域と言うことができます)と知性・創造性が 同じ土俵に乗ってきています。

 外から加えて 何か他のものにするのではなく、個々人が持っているものを引き出し その人らしさを発揮できる 社会に向けて…







【補記】
 「人が持てる可能性を発揮する」とは
 仏教でいうところの「仏性をひらく」ということなのかもしれません

「決まり」というもの

 昨日の記事に引き続き、
 同じ本からの文章を 忘備録として引用しておきます。

 坐禅でもまた人生でも、たくさんの困難、問題に出会います。問題があるとき、どうして自分にこういう問題が起きたのか、それを自分の力で見つけることができるかどうかを考えてください。あなたたちはたいてい、最善のやり方でなるべく早く困難を解決しようとします。自分でそれを学ぼうとするよりは、なぜ自分に問題が起きているのか誰かに尋ねます。そういうアプローチは普通の生活に関してはうまくいくかもしれませんが、禅を学びたいのならば、役には立ちません。

 誰かから何かを聞き、それがわかったと思ったとたんに、あなたはそれに固執し、あなたらしさが充分に働く可能性を失ってしまいます。何かを探し求めているときには、暗闇の中で枕を手探りしているかのように、あなたの本性は全面的に働いています。どこに枕があるかがわかったら、もはや心は全面的には働きません。心は限られた感覚で作動します。枕がどこにあるのかわからないで枕を探しているときには、あなたの心はあらゆるものに対してオープンな状態になっています。このように、あなたはあらゆるものに対してより繊細な態度をもつようになります。そしてものをあるがままの状態で(things as it is)見るようになります。

 何かを学びたいのなら、答えが何であるかを知らないほうがましです。(略)

 あなたたちは自由を求めているのですから、いろいろなやり方を試してみなさい。(略)時間を無駄にしたように見えるかもしれませんが、それでもそういう態度は大切です。そうやって見つけようという努力を続けていれば、ものごとを理解する力がもっと強くなるでしょう。何をするにしても、時間を無駄にすることにはなりません。

 限定された考えや限定的な目的をもって何かをするとき、あなたの得るものは何か具体的なものです。それはあなたの内的な本性を覆い隠してしまいます。ですからそれは、何を学ぶかという問題ではなく、ものごとをあるがままに見る、あるいはものごとをあるがままの状態で受け入れるという問題なのです。

(略)

 われわれ一人一人はそれぞれが他の人とは違っています。ですから状況に応じて、やり方を変えなければなりません。一つのものにしがみついていることはできないのです。唯一のやるべきことは新しい状況下において、行動するための適切なやり方を発見することです。

(略)

 私が永平寺で師匠の補佐をしているとき、彼は私に何も教えてくれませんでした。しかし、私が間違いを犯したときには、私を叱りました。通常、戸を開けるときには右側の戸を開けるのですが、私がそのようにして開けると、叱られました。「そんなふうに開けるな! そっち側じゃない!」 それで次の朝は、もう一方の側を開けました。するとまた叱られました。私はどうすればいいのか、わからなくなってしまいました。後になって、右側の戸を開けたあの日は師匠の客人が右側にいたことを知りました。ですから、そのときはもう一方の側の戸を開けるべきだったのです。戸を開ける前に、私は客人がどちら側にいるかを注意して見つけるべきだったのです。(略)

 師匠はわれわれには何も教えてくれませんでした。(略)

 決まりごとや偏見なしに、ものごとをもっとよく理解しようと努力する、それが「無私」(selflessness)ということです。何かが「決まり」であると言いますが、決まりはもうすでに自分勝手な考えなのです。実際には決まりなどありません。ですから「これが決まりだ」と言うとき、他者に何かを、決まりを、強いているのです。

 あまり時間のない場合や、あるいは親切なやり方でもっと親身に人を助けることができない場合に限って決まりが必要になります。「これが決まりだから、そうするべきだ」と言うことは簡単です。しかし実は、それはわれわれのやり方ではありません。(略)

 私は、あなた方をあまり手助けできないことを申し訳なく思っています。しかし真の禅を学ぶやり方は言葉によるものではありません。ただ自分を開いて、あらゆるものを手放すのです。何が起ころうとも、それが良いとか悪いとか思っても、自分が見出したものを綿密に学びそして理解しなさい。これが根本にあるべき態度なのです。上手、下手にかかわらず絵を描く子供のように、これといった理由なしに何かをすることがあるでしょう。それがあなたにとって難しいのなら、それは実はあなたがまだ坐禅をする準備ができていないのです。

 実は任せる対象などないのですが、それが任せるということが意味することです。特定の決まりや理解に固執して自分自身を失うことなく、刻一刻自らを見出し続けなさい。それがあなたたちのなすべき唯一のことなのです。

<P.162~P.170>   

 「法律は最低の道徳」と言われることがあります。なんとなく納得したような気持ちになったりもするのですが、どこか違和感がありました。そして今回この本の中で、「決まりはもうすでに自分勝手な考え」であり 「あまり時間のない場合や、あるいは親切なやり方でもっと親身に人を助けることができない場合に限って決まりが必要」になる、という文章を目にしたとき、「そうそう!まさにそういうこと!!」と深く腑に落ちたのです。

 「決まり」があることで ものごとを短時間で処理することができ ある限られた範囲の中においてはとても便利なものです。そして 社会を営む上で「決まり」は ある程度 必要なものだと思います。でも、その「決まり」というものの本質や出自を忘れてしまうと 従である「決まり」が主であるかのように人々が扱い始め、本来主であるはずの人の本性や自由や生命が 「決まり」の従となり その可能性が潰えてしまいます。その例として思い出すのは、かつて「死刑を廃止してしまうと無期懲役の人が増え 収容するコストがかかるから、死刑制度は必要」と言った 公務員である知人のことです。
 また ある社長さんは、規則をまったく作らずに会社を運営していたところ 社員の方から規則を作って欲しいと言ってきた、と話してくれました。決まりに従うことに慣れてしまうと 自由であることに不安を感じるのかもしれません。その社長さんは まったく仕事をしなくていい社員を雇っていて(*とは言え、何らかの表現活動をされている方たちでしたが)、それはフィランソロピー活動であると同時に 「人は自由に耐えられるのか」という一種の実験のような側面もあると おっしゃっていたように記憶しています。お話を伺ったのは もう20年以上前のこと。いま その会社はどうなっているでしょうか。

 「決まり」は 様々なところにあります。

 概念や言葉も 一種の 決まりです。

 「型」と言った方が 良いかもしれません。

 「型」はあらゆるところに見られます。

 暗闇の中で枕を手探りするように、人の自発性や自立性や自由や可能性を潰さない「型」 あるいは それらを育み伸ばすような「型」を あるいは 型が必要のない社会のあり方を 模索してみたいと思うのです。

だいちを耕す

 家にあった本を何とはなしに繰っていたら 目にとまり手が止まる文章にいくつも出逢いました。『禅マインド ビギナーズ・マインド2 ノット・オールウェイズ・ソー』。帯には、「スティーブ・ジョブズの師、鈴木俊隆師の邦訳第2弾」とあります。

 世界三大宗教の創始者の中で 唯一 神憑りのない釈迦は、いま そして これからの時代において かなり当てにでき信頼できる存在ではないかと、私には思えます。ただ 釈迦の精神が いまどの程度受け継がれているのかについては 門外漢の私には分かりませんので、宗教としての現仏教が信頼できるかどうかは不明です。しかし、少なくともこの本の中には 信頼に足り 自らを導きうる言葉がちりばめられていました。

 その一つが、「11 土壌の世話をすること(Caring for the Soil)」の章。

 扉のページには、「空[くう]とは何もそこに見ることができない畑です。実は空はすべてを生み出す母なのです。そこからすべてのものがやってきます。」というリードがついています。


 ほとんどの人は仏教を、すでに与えられたものであるかのようにして学んでいます。われわれがしなければならないのは、食べ物を冷蔵庫の中に入れるように、ブッダの教えを保存することだと考えています。そして、仏教を学ぶときは、その食べ物を冷蔵庫から取り出すのです。ですから、仏教が欲しいときにはいつでも、それはもうすでにそこにあるのです。しかし、禅を学ぶ者は、そうではなく、田や畑から食べ物を生み出すことに関心をもつべきです。われわれは大地のほうを強調します。

 (略)

 たいていの場合、われわれは何もない土地には興味をもちません。われわれはむきだしの土地ではなく畑で育っているもののほうに興味をもつ傾向があります。しかし、良い収穫を得たいと望むなら、最も重要なことは土壌を肥やし、それをよく耕すことです。ブッダの教えは食べ物それ自体に関するものではなく、それをいかに育てるか、それをいかに手入れするかに関するものなのです。ブッダが興味をもっていたのは特別な神でもなければすでに存在しているものでもありませんでした。彼が興味をもっていたのは、さまざまな畑がそこからできる土地のほうだったのです。彼にとっては、すべてものが神聖なものでした。

 ブッダは自分が特別な人間であるとは思っていませんでした。衣を身につけ、鉢を持って托鉢をし、最も普通の人のようであろうとしました。彼はこう思っていました。「私にたくさんの弟子がいるのは、私のせいではなく、弟子たちが優れているからだ」と。ブッダが偉大な師であったのは、人々についての彼の理解が素晴らしかったからです。彼が人々をよく理解していたからこそ、彼らを愛し、助けることを喜んだのです。ブッダはそのような精神(spirit)をもっていたからこそ、ブッダ[覚者・仏]でいることができたのです。

<P.115~P.118>   


 今日、人という土壌を耕し肥やす助けになるであろう本が 出版されました。

 その内容は、「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉が指す道に添うものでもあります。

 人と交わりながら 自由自律のまま 自分の本性をあらわすこと…


 そのためには 自らのカラダに根ざすことがとても大切だと、感じています。
 その意味においても カラダの意識から離れることのない禅の精神は 大いに助けになるのではないでしょうか。

 土壌の世話ができるような社会を 少しずつデザインしていきたいと思います。


未来のクニへ(3)


 未来のために いま 私たちは何をすべきなのか

 未来のために いま 私たちは何ができるのか

 「そう問われているんだなぁ」と ティンバライズの展覧会を観た私は思いながら 二重橋前駅から東京駅まで歩いていると、行幸地下ギャラリー前で「丸の内 行幸マルシェ×青空市場」が開かれていました。色とりどり 様々な農産物が並ぶなか ところどころに立てられた緑の旗には、未来の子どもたちのためにいまどういう食を選ぶのか を問う言葉が記されていました(*正確な文言は覚えていないので もしかしたら正しくないかもしれません/【追記】を参照下さい)。

 帰りの電車の中で 家人に ティンバライズのことを知らせるメールを送ったところ、その返信には 夕刊を読んでほしい旨の文字。帰宅してすぐに夕刊を開いてみると 自然栽培のつくり手の広がりを伝える記事が載っていました。私にとって 自然栽培は 未来につながる食の一つの在り方です。家人も 自然栽培を応援している一人ですが、まるで家人が 私が行幸マルシェに出くわし何を見たかを知っていたかのようで そのタイムリーさに笑ってしまいました。

 そして、朝 家を出るときは それほど心惹かれていたわけではない後藤新平氏についての番組が 急に気になり、ネットで調べてみると 運良く その番組がアップされていました。早速 見残した部分を観てみると、番組の最後で 2020年の東京オリンピックへの言及が…。

  「我々はこの時代に彼のことを考えるのは
   とっても大切じゃないかと思うんですよ。

   公共財っていろいろあると思うんですけど、

   いまの人間だけで考えちゃいけない公共財ってあって、

   時間をどんどん超えていく…
   つまり その世代の話だけではすまないものって

   世の中にはたくさんあって、やっぱり都市の計画なんかはそうで

   東京オリンピックを控えている我々がたとえば

   今の人だけの利益とかすごく一部の人のための利益を今日やって、

   将来 ぼくらのような歴史番組で恥ずかしい目に遭うようなことは

   絶対になくあってほしいというふうに 非常に願うし、

   やっぱり後藤がこの時代 曲がりなりにも

   『生命と健康』を公共の真ん中に置いて奮闘したという歴史っていうのは

   それ自体が僕らへの遺産のような気がしたなぁというのが
   感想でしょうかね。」

  (磯田道史さん/静岡文化芸術大学文化政策学部教授)

 折しも今 現国立競技場の解体工事と新国立競技場の建設をめぐる「官製談合」の疑惑が出てきています。その真偽はいずれ明らかになると思いますが、もしも 未来のために流していくエネルギーとしての「お金」が 利権やコネというものによって国家や公共財に寄生しているものたちに吸い取られてしまう現状があるとするなら それは いまこのときに修正しなければなりません。一部の者たちの語らいによる「談合」がはびこり運営される社会は 一種の強制社会とも言えます。選択も創造力も生かされない「強制」は いのちの在りようとは相容れません。ですから、狭い視野での談合の是非に留まらず、そういうシステムを続けていくなら 寄生している者たちも含めた私たちや私たちの社会が いずれ疲弊し破綻することは避けられないでしょう。(*もうそうなっている と言えるのかもしれませんが…)

 東京という一都市に多額の国家予算を割くことはできないと国会で判断された「後藤新平氏の復興計画」を実現させた経験は、戦後 全国の都市100カ所以上で戦災復興に生かされたそうです。

 あたらしいカタは 一定の地域でまず試してみる必要があります。

 オリンピックをどう捉えるか それは人ぞれぞれだと思いますが、オリンピック開催が決まっている現在 あらたな都市・あらたな地球市民の生き方を提示する機会と捉えることで、私たちは 世界から与えられたこの機会を最大限に生かすことができるのではないでしょうか。そしてそれは 東北の震災復興と連携して行われるなら より望ましいものになるのではないでしょうか。

 未来につながるあらたなカタは、どういう物をつくるのか というハードに限らず、それをどのように決めていくのか というプロセスにも求められることです。

 

  「僕は福島の復興の現場で
   いろいろな議論をするところに身を置いているんですけれども、

   議論を 地域の人たちを巻き込んだ形で

   (地域の人たちを)主人公にして 議論をとにかく重ねていく場を

   とにかくつくらなくてはいけない。その場がないんですよね。

   で、そこに お金の問題みたいなものがすぐかぶさって

   議論すらさせないような形で 転がっていく……
   ということの不幸を感じます。

   だから 今 被災地で
   後藤新平を待望する空気はたくさんあるんですよ。

   でも、だれかそういう英雄的な政治家がビジョンを掲げてあらわれて

   そこに身を委ねれば前に進めるのかっていうと
   僕は そうではない(と思う)。

   そうではないということを覚悟を決めて引き受けて

   自分たちで議論を少しずつ組み立てて

   自分たちの将来の姿 在り方 地域社会の在り方っていうのを
   探していくしかないのかなと思います。」

   (赤坂憲雄さん/民俗学者)

 かつて江戸と呼ばれた東京は、江戸時代 明治維新 関東大震災 第二次世界大戦 と、幾度も大掛かりな都市創造・都市改修が行われた「人工」の地。

   「江」は、大地を川が貫いているさま

   「戸」は、出入り口 や 扉

 この21世紀

 江戸たる地は

 あらたな流れのとびら となれる

 でしょうか


[おわり]



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【余談】

 この日の夜 「かもめ」という意味の名を持つ台風が発生しました。

 発生した台風の名前が気になっていろいろ調べていた時期を過ぎ このところはそういうこともなくなっていたのですが、今回はなぜか気になって ネットでカモメについて調べてみると、「海と航海の象徴」「国際平和の象徴」「夢や希望の象徴」という言葉がヒットしました。また 「海と陸の境界にいる鳥」と捉えられることもあるようです。

 そういえば、ティンバライズの展覧会を見たあと立ち寄ったスパイラルマーケットで 唯一目に留まった品である1枚のカードに描かれていたのは 羽ばたく数羽のカモメ…。


 なんだか 朝からいろいろリンクしていった一日でした。



【追記】(2014年10月03日(金))

「丸の内 行幸マルシェ×青空市場」で見た旗に記された言葉は
 「子供たちの子供たちも、
  その、ずーっと先の子供たちも
  食べていけますように。」
でした。

この文章を私は「未来のために いま どういう食を選ぶのか」という問いかけとして捉えていたようです。



この写真は マーケット会場から少し離れた場所で撮ったものです。
この少し先に たくさんのお店が出ています。

通りすがりに 極早稲のみかんが目にとまり、重くならない程度に少しだけ買いました。対応してくれたのは、その和歌山の農家さんのお手伝いに来ていた 東京農大の学生さん(*農業経済学を専攻とのこと)。この日は 学生は少なかったようですが、いつもは たくさんの農大生が助っ人として来ているようです。
そういえば 農大の学園祭「収穫祭」も 食の祭典ですね。


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