Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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COMMONな財・サービス

 次に、“「与えられる」ところから始まった社会”で提供される「財やサービス」というものについて考えてみます。


 人々が無条件に安心して生きられる社会の基盤(衣食住)があるとして、その原初的な状態から 社会で提供される財やサービスというものを考えるとき、それらは 人々が、ヒトが、生き生きと暮らし、個々人の可能性をひらき はぐくんでいけるものであるのが望ましいし、そうあってほしいと思います。

 その立場からすると、社会に財やサービスを提供する「仕事」とは ヒト(の可能性)を育み発揮する“事”に“仕”えるおこない、です。そして、現在の社会においても「消費者【注】が市場を育てる」という言い方があるように、財やサービスを提供する人と提供される人は 財やサービスを共に創っていく協働者、です。財やサービスは人々の間で交換されるものではなく 人々の間で創り上げられるもの、ということになります。

 現在の社会では 交換という概念に基づき 財やサービスを社会へ分配する手段に貨幣を採用しています。それが有効に作用した側面もありますが、「交換」という概念が そもそもの主客を逆転させ、(金銭的な都合がら 納得できない状態で物事が進行していく、など)人々の間で交わされるエネルギーの生き生きとした流れを大きく損ねたり阻害したりしていて、結果として 人が自主性や可能性を失いつつあるのが、現状ではないでしょうか。

 ホモ・サピエンスは知識などの情報を他者と共有することが種の大きな特徴であると言われます。その最も優れた種の文化的特徴の一つが、「交換」という概念に依拠する特許とか企業秘密という囲いによって 消し去られようとしています。

 交換を意味する英語は、exchange
 その語源は、ex “out”+kemb- “to bend, crook”。後者の祖語が「交換」という意味になっていく過程として、“to turn” → “to change” → “to barter”が仮説されています。(形が)変わる、ことの延長に、交換する、があるのです。
 英語のcommon[=共有]の語源は、ko- “together”+mei- “to change, go, move”。
 ともに変わる、ともに行く、ともに動く。
 今ここで私が考えている財やサービスの在り方にとても近しい概念です。





【注】(2021/05/01 追記)

 「消費者」という言葉/表記に 違和感を覚えます。
宇宙ではすべてのものが大きな流れの中にあって、消えて費やされることは決してないからです。また、上記本文に記したように財やサービスを捉えると “消し費やす者”など、どこにも存在しないからです。では、従来「消費者」と呼ばれている存在を どう言い換えるのが良いでしょうか? いま思いつくのは「利用者」や「活用者」。適当な言葉が見つかるまで懸案事項としておきます。




「与えられる」ところから始める。

 どこまでたどり着けるか分かりませんが、「まつりごと」というものについて 試行錯誤してみたいと思います。


 ここで言う「まつりごと」とは、バランスをとる、動的平衡、というようなものです。私たちの存在は 知覚できない領域も含めた“全体”におけるバランス、まつり[=間衡り]に依拠していると思われますが、現実問題として私たちが触れられ取り扱えるのは、(不可知の領域に明け渡している実感も含めて)知覚できる領域です。それは自ずから、いずれどこかで行き詰まる可能性が高いことを意味していますが、限定された世界に生きる私たちは 行き詰まったり行き詰まりを感じるまで、その時々の知覚とそれに基づく思考の限りを尽くして進んでいくしかありません。

 まずはじめに考えたいのは、ヒトという存在の始まりについてです。
 一人のヒトの始まりは、両親から与えられる命です。
 命の始まりは、その詳細はまだ解明されていないものの 宇宙の始まりから導かれたものです。
 宇宙の始まりは、これもまたまだ解明されていないものの 現時点での理論/仮説によれば 何らかの“私たちがエネルギーと呼ぶもの”の動きに還元されます。
 これらのことを 大雑把に一言でまとめるなら、私たちは「与えられる」ところからスタートしている。
 私は、この 私たちの存在そのものに作用している流れ、つまり「与えられるところから始まる流れ」というものに立脚して「まつりごと」を考えていきたいと思います。

 すべての人が自給自足していたとしても 私たちは(ヒトだけに限定しても)互いのかかわり合いの中に存在しています。ましてや現在のような分業社会においては言うまでもないことです。そして「分業」の実現には、その社会の構成員の食べ物がより少ない人数で効率的に獲得できるようになり 食糧獲得以外に人員を割けるようになる、という前提があります。その前提には、食糧だけではなく住処や衣服の獲得も含まれるでしょう。つまり、「生存への安心[あんじん]」が分業の前提であり、もっというならどんな社会であれそこが出発点だと考えますし、いまこれからの社会を考える際にも そこから出発したいと思うのです。

 それは、「与えられる」ところから 命が、命の成長が、命の可能性が始まる、ということです。

 そのことを現在の社会にうつすなら、社会の構成員は無条件に衣食住に安心できる状況である、ということになります。
 では、その状況を 具体的にどのような方法で実現するか---。
 貨幣によって必要な財サービスを行き渡らせるシステムを作用している今の社会において、現時点ですぐ思い浮かぶのは、ベーシックインカムという手法ですが、貨幣経済というシステムも含めて 最適な方法かどうかは分かりません。
 ただ、(社会システムを維持できるのであれば)踊り場的な意味合いでベーシックインカムを導入する、というのは、妙案かと思われます。

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