Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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ころもかへ






は る す き て

な つ き た る ら し

し ろ た へ の

こ ろ も ほ し た り

あ め の か く や ま





<万葉集より>


 





「空」での はじまり

本日
Ri-デザイン研究所のホームページが オープンしました。
活動内容のコンテンツが 「準備中」であったり
まだまだ 創作途中の場ではありますが、
その道のプロの方との協働によって
インターネットという「空」の場に形として現わせたことを
ひとまず 喜びたいと思います。


自分では決して考えられなかったであろうデザインが出来上がり
とても満足しています。
また 制作に関するやり取りの中で 様々な気づきを与えていただきました。
たったHPひとつ のことなのですが
そのような機会が得られたことを 心より嬉しく思っています。


これから よりよき場へと 育んでまいります。



Ri-デザイン研究所HP



分離と統合


分断統治 といわれますが
「分離」が問題なのではなく
「統合」の術(すべ)が 問題なのではないでしょうか


分断して統治している のではなく
もともと分離している個々の
つなげかた 集め方 統合のしかた に
問題があるように 思えます


   いわゆる 分断統治において
   人々にダメージを与えているのは
   グループ化 という集団化の手法です

   統治する者にとって都合良く グループ化するために
   感情や精神的な弱さが
   さまざまな「理屈」や「正義」や「正当性」によって
   利用されるのです


問うべきは
統べる ありかた


つなげる のでもなく
むすぶ のでもなく
あつめる のでもなく


組織にしても
情報にしても
ひと と ひと の 関係において


個として自律したまま
外部に開いた状態で
いかに 他者とコミュニケートし
必要なとき 協力できるのか



自治へ


主義ではなく

民主主義でもなく

自治 へ

自らが治めるための社会へ

そのための しくみ を ゼロから考えることが いま 必要なのでしょう




信任


 本日 改正郵政民営化法が参院本会議で可決し 成立しました。
 郵政事業については 様々な観点から検討が可能ですが、郵便貯金や簡易保険を利用していた人たちは 国/政府を信頼してお金を託していた という視点から考えるとき、公的な機関が その代替となる受け皿を用意することもなく 株式会社という民営企業に変わってしまうことは 最も重要な信義則に反することではないでしょうか。
 簡易保険に加盟したり 郵便局に口座を持つのは、地域によっては他の金融機関の選択肢がないからということもあるでしょうが 多くの場合 それが公的な機関であることが 動機のかなりの部分を占めていると思われるのです。少なくとも私が 郵便局に口座をつくった動機は そうでした。
 郵政事業にまったく問題がなかったとは言いません。しかし 金融という非常に公的な営みを担う主体が 国や公的なものであってほしいと考える人々の意思に応え 生かす社会であってほしいと願います。

 郵政事業に対しては 民業圧迫である という言い方がされることもありますが、金融という限りなく公的なハタラキを 民間会社だけに委ねることには 社会的に大きなリスクがつきまといますし(少なくとも そう考える人たちが存在します)、人々の選択肢を保証するという意味からも 現在の市場原理とは別の価値観で営まれるものが 望む人がいるのならば確保されるべきだと考えます。


 また、代替する公的機関が存在しないままの郵政民営化は 国民ヘの信義則違反である ということの延長線上に 紙幣発行の問題も浮かんできます。

 私たちは、日本円は 日本という国が発行しているお金だと思って使っています。普段 そこまで意識をしていなくとも 感覚的には「日本という国のお金」と思っているはずです。しかし 現実は 紙幣は日本国発行紙幣ではなく 日本銀行券 なのです。日本銀行は アメリカの中央銀行のような完全な民間企業ではなく 政府が株を持っているから問題ない という意見も耳にしますが、日本や政府への信任によって紙幣の信用が担保されていると考えるとき 日本政府以外のものが そこに関与することは これまた 重大な信義則違反と言えるのではないでしょうか。


 政策論は 手法・方法 です。
 それ以前に考え 議論すべきことがあるように思います。

 手法や方法は 目指す場所へ たどり着くためのものなのですから。


 「公(おおやけ)」というものについて 私たちは改めて(*初めて?) 自問し 真剣に考える時期にきたのかもしれません。


うるう弥生


今日は 旧暦の閏弥生の新月です。
旧暦では 今年は約3年に1度(*正確には“19年に7度”のようです)訪れる閏月の年で、3月22日に始まった弥生にひきつづき ふたたび 閏月の弥生が始まるのとのこと。計13ヶ月、増えたひとつきが 春に加わるのは なんだか嬉しいものですね。

閏を「うるう」と読むのは 潤と混同したことによると ウィキペディアには記されていますが、そんな 人為を超えた“偶然”は 何かを意味しているのでしょうか。今年2度目の弥生 潤う月 にふさわしい 水に関することがらが、いま 私の意識の中で交錯しています。

先日 知人から届いたメールには、ご神事のためにいただいたお水が ビジネスに転用され そのお水をいただくために仲介した彼女が 心を痛めている様子が記されていました。その水が転用(*盗用とも言えます)されたビジネスは 「よいお水」を売る いわゆる水ビジネスの類いとはやや異なりますが、いまや水ビジネスは世界中で一大産業となっています。かつて ボトル入りの水を飲んでいる国の人々を ある種の哀しみとともに驚きの目で見ていた頃が 嘘のようです。

現状を鑑みれば、安全な水 心身によい水が それとして人に知らしめられ 渡ることは必要なことです。しかし 本来 水も空気もすべて ただ でした。それを汚してきたツケを いま そして これから私たちは払わなければならず、その過程において 安全な水と危険な水 良い水と悪い水 というような峻別作業は、様々な技術開発とともに 当然に生じてくる一過程だと思われます。しかしそれだけは 根本的な解決には至らず、同時に 本来の姿を見据えた取り組みが必要だと思うのです。
空気も水も あまねく安全で ひとにとってよきものである
という 本来の姿に戻す取り組みが。

それは 水に留まらず、
空気や大地という トータルな地球の財産、
始めから与えられていた地球の公共財すべてに 求められていることでもあります。(*本来 エネルギーも ここで言う地球公共財だと理解しています。)


   まず 小さなカタで始めて
   想定される問題を 可能な限り洗い出し
   そこで うまくいったら
   広く伝えてゆく


ある自然栽培農家の方が、新しく物事に取り組む時の姿勢として そうアドバイスして下さいました。この方は あまねく農地を おそらくは ひいてはあまねく大地を 本来の姿に戻すために 自らが携わる農の中で実践を重ねています。いのちを育むに足るエネルギーを宿した土から育った野菜は それを食した人のいのちを育み、その土を通過する水や空気をも 整えてゆくことになるのでしょう。

いま それぞれの方が それぞれの役割に応じて動かれていることと思います。
また、このように記した私が 土や水や空気を整えるための具体的な活動を 行なっているわけでも これから始める予定があるわけでもありません。(Ri-デザイン研究所の視座の中には 含まれていることではありますが。)
ただ 思うのは、誰かが 何かが すべてを解決してくれることはありえないだろうということと、それは あってはならない ということです。

水や空気や大地を汚さず 本来の姿に整えてゆくための取り組みは
どんな場所でもできるはず。

   物質の領域においても
   意識の領域においても

蛇口から出る水が
井戸からくみ出した水が
岩から溢れ出る清水が
安心して口にでき
いのちを育んでくれるような そんな日に 一日でも近づくために
小さなことから 小さなカタから 始めることは 誰にでもできます。

そして それこそが 人と地球をつなぐ 本来の ありかただと思うのです。

ひとりひとりが生み出した それぞれの異なる その実践こそが、創造性に満ちた 地球の富となってゆくのではないでしょうか。




生を活かす


「いのち」と題したブログのコメントで 生活者 という言葉に触れました。

 生を活かす と いうことを考える時 わたしには

          進化し続ける流れ

の イメージが浮かびます。


 具体的に言えば 私にとっては いま応援している農がそれに当たります。おいしくて身体が喜ぶ野菜たち というだけに留まらず、その農のハタラキによって 土が浄化されてゆくという理解があり さらに そのあり方は 世界中どこでも実践可能であるという普遍性を持っていて しかも 自然という顕われの背後にある「理」を見据えようというベクトルを有しています。それは 滞りなく また 一定の閉じられた範囲内を循環しているものでもなく、どんどん進化してゆく(可能性が感じられる)流れ です。その流れの中では 少なくとも私には 生産者とか流通業者とか消費者という分断はなく 同じ流れを行くもの という 同志のような 仲間のような意識があります。仮に 将来 その農のやり方が変わったとしても あるいは 別の名称になったとしても 大きな流れ自体は変わらないと思える ものなのです。

 昨年ご縁のあった林業家の方は 400年の森 をテーマに 林業家としての森づくりをしています。私はまだ伺ったことはないのですが その針葉樹の森は 多様な生態系を保持していることで有名です。
 食べ物の場合 環境に負荷を与えない 自然に順応し 未来への責任を担った方法で育てられたものは 品質としても優れている傾向がありますが、木材の場合は その方のような森づくりをしているところから出たものより 違法伐採した原生林からのものの方が 品質的には優れていたりすることも起こりうるわけです。もちろん 感受性がものすごく鋭敏な方は その伐採過程のエネルギーまでも感じ取ることができるかもしれませんが、通常はそこまでをエンド・ユーザーに求めるのは難しいのが現状です。だから この分野においては ものがよければいい という視点だけでは 未来への責任を果たせません。そのために 森林認証制度などがつくられているわけですが それもまた 進化し続ける流れ を作る ひとつの試みだと思います。
 彼の森は たとえば 倒木をそのままにしておくなど、短期的な狭い視野で見れば 効率の悪いこともしています。でも 多様であることが豊かであり その豊かさこそが強さである と言うのです。

   もっとも美しい森林は もっとも収益高き森林である

 というのが 彼の持論。
 きっとその森は 今の私たちが想像できうる以上の美しさを 将来 備えてゆくのではないでしょうか。

 そんな 進化し続ける流れ を この世の中につくること。
 それが 真の豊かさ であり 真の富 ではないだろうか と 感じています。
 それが 生活 であり 生活者 ではないだろうか と思うのです。




【コメント】
 自然栽培においては、農に携わる方の意識の変化に応じて 土が大きく変化する ことを、複数人の方が体験しています。このことが ある種の法則であるのなら その理が明らかになってゆくのが とても楽しみです。



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