Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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創造性 という 富

 昨年の秋から年末にかけて いわゆるビオ・ワインと呼ばれるワインを味わう機会に恵まれました。「ビオワインにはビオロジック・ワインとヴィオディナミ・ワインに分類できる」と書いてあるサイトもありますが、簡単にいえば 自然環境に配慮し その恩恵を最大限に生かし 農薬と化学肥料を用いず育てたブドウを 天然酵母によって醸造させたもの。当然ながら味は様々ですが 個人的には 概して優しくこまやかな“味わい”と“つくり”を感じます。最も分かりやすいのは 身体への負担が少ないということでしょうか。どんなお酒も飲み過ぎると「頭にきます」(*怒りたくなる ということではなく、頭が痛くなる ということです)。でもビオワインはいくら飲んでも(*まあ アルコール分解酵素の多寡や個人によってその反応は違うのでしょうが)意識はクリアで 自分の適量を超した場合は翌日に身体(*胴体という意味です。肝臓と胃腸だと思われます)へ疲れとしてだけ現われるのでした。ちゃんと作られた発酵飲料を適量飲んだ翌日は 胃腸の調子が良かったりもします。通常のワインは飲めないけれど ビオなら飲めるという方もいるほどですし、ビオワインによってワインデビューしたことをきっかけに どんどんご自身を解放されている年配の方にも出逢いました。「おいしいお酒とおいしい食事は 意識を引き上げてくれますね」とお話したことを思い出します。

 ただ どんな世界も あるカテゴリーの言葉がうまれると、本質の装いとしてのラベルであるはずのその呼称が 本質のように振る舞い始め、農薬と化学肥料は使っていないけれど 例えば「自然環境に配慮しその恩恵を生かす」という その呼称が現わしていたはずの“本来のベクトル”を失ったものが 作られるということが起こってきたりします(*精神性を失ったビオワイン とでも言いましょうか…。「農薬や(化学)肥料を使わないスタイル」は結果であるのですが 自然と向き合うことなくそのスタイルだけを真似ている方もいるようです)。そういう現状があるため あるインポーターさんは 真っ当なビオ・ワインをつくっている方たちのワインを ビオ・ワインという名称で括るのを良しとせず、そういう生産者さんたちを招いたイベントで 彼らのワインを「自由なワイン」と名づけて紹介していました。

 物事に真摯に取り組む方は 言葉や表現にも敏感なのでしょうか、そんなワインの作り手の一人は 「ワインをつくる」という表現がしっくりこない とおっしゃっていました。ワインをつくるのは 葡萄の木であり 太陽であり水であり土であり風であり 微生物であり 「私の仕事は いいブドウを運ぶだけ。水を向ける ということです」と。ワインづくりを担うものたちが 最大限の力を発揮できるように場を整えるのが仕事である と言っているかのようでした。それは 自然栽培に携わる方達と同じ認識 あり方です。
 名づけることの難しさと大切さを そして 言葉とは思想や価値観をかたどるものであるという事実を “自由なワイン”を通して痛感し また 真摯に考える機会を与えて頂きました。


 先日、そういう出来事の中で出逢った あるインポーターさんが営むアンテナショップへ うかがう機会がありました。もともと画家で「私の人生は 第4章ぐらいあるの」と話されていたその方の お話はとても興味深くおもしろく 人としてとても魅力的な方なのですが、うかがった中でも特に印象に残ったのが 「インポーターとしての姿勢」「流通に携わる者の姿勢」でした。

   “その素晴らしいモノ”をつくった人 より
   間に入る者が 儲けるのは おかしい

 その会社は イタリアやスロベニアからワインや食材を輸入していますが、驚くべきことに 現地よりも日本での値段の方が安い ということが起きているようです。
 「作り手も 仲立ちをする私も そして 消費者も みんなハッピーになるでしょ?」
 そう微笑む彼女の会社は 起業してからの18年間ずっと 売り上げは右肩上がりなのだといいます。かといって熱心に営業してきたわけではないようで、私が彼女と出会った“ワイン会”も 知り合いのインポーターさんに勧められて引き受けたというほどです。声高に主張するのではなく、まっとうなものを まっとうに扱うことで、確実に 求める人の手に渡ってゆくのかもしれません。それが私には、引き継いでゆきたい「在り方」あるいは「精神(性)」が ゆっくりと でも着実に 引き継がれてゆく姿に見えるのです。


 私がずっと抱いていた違和感の一つに どうして農家は自分たちがつくったものの値段を決められないのだろうか ということがありました。今は、ヤミ米と叩かれた歴史を経て 自主流通米が普通になり また 消費者グループや協同組合などによる共同購入によって 自分たちで値をつける農家は増えてきました。作り手によってそこから生まれるものは異なる という当たり前のことが なぜか通用せず、質も味も異なるものたちがいっしょくたにされ 「農産物」という言葉に丸められて市場に出されるということが続いてきたのです。
 では 作ったものの個性や品質が認められれば そのモノへの評価がそのまま作り手へ渡されるのか と言えば、必ずしもそうではない現実もあります。かつて 関東周辺で1万円前後で売られていた焼酎が 製造元の地元の酒屋で2000~3000円で売られていましたが、小売値が上がるのは生産者の意向だとばかり思っていた私は その現実に驚いたものです。
 「流通業者は 売れる価格で売る」のだと教えてくれた方がいました。
 高く売れるのは 流通業者の販売促進の努力によることも あるでしょうが、それでも そのモノの素晴らしさ そのモノをつくっている方があってのこと。つまり そのものの価値が 第一義であるはずです。高くてもその対価を支払いたいと思うのは そのモノに対する評価です。支払う側とすれば その創造を行なってくれた方 あるいはその創造にもっとも貢献している方に 最も多くのお金が渡ってもらいたいと思います。
 そんなことを思っていたら つい最近読んだ本の中に「アメリカのベンチャー企業では 社長が最高給をとっているケースは稀である」という記述を目にしました。マネジメントの能力のある人は他に求めることができても その会社の財産である創造性あふれる才能を持った人は唯一無二。だから研究開発に携わるエンジニアの方が社長よりも報酬が高いケースは珍しくないのだそうです。


右のものを左に移して その差額を儲ける
あるいは
情報の格差を利用して 儲ける、
それは頭脳を使うかもしれませんが なんの創造性も有していません。
先に紹介したインポーターさんのように 作り手/創造した人に対する敬意があれば 間に入るものの利益だけが肥大化することはありませんが、より多くの儲けだけを追い求めるならば それは次第にマネーゲームとなってゆきます。マネーゲームを金融の世界の非とだけ認識するのは 正しくないと思うのです。

お金を「育むエネルギー」とするなら
その育むものは
モノやサービスにおける
ひとの営みにおける
創造性であり 価値です。

先日 国内外で活躍するベンチャー・キャピタリストの方のお話を聞く機会がありましたが、その方が強調されたのは 創造性へ投資する ことの大切さ。
人の創造性こそが「富」である と語られました。

国富とは まさに 国民の創造性 です。
その唯一無二の宝である 国民ひとりひとりの創造性を育むために、お金というエネルギーを どう注いでゆくのか。ベーシックインカムについても その視点で捉えなおせば 新たな展開へつながるような気がします。

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