Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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いのち


 一つ前の記事に引き続き もうひとつ いのちについて過去に記した文章を アップしておきます。昨年12月20日のものです。

イの流(ち)


 カナダのユーコン準州に住んでいる 知り合いのカメラマンが、この連休 帰国して京都で写真展を開きます。先ほど訪れた彼のブログで 改めて見た個展のタイトルは 「Northern Life 極北の生命 ーWILD SHEEP COUNTRYー」。
 “生命” という文字に反応し、わたしが 彼の写真のなにに惹かれるかの理由が わかったような気がしました。そして、過去記した文章で 自身のブログにアップしたいと思いつつ未だできていないものの中から いのちに関するものを アップしておきたくなりました。
 ということで 今年の2月6日に書いた文章を 以下 転載します。

まつりごと の こころ


 畠山重篤さんの講演をきっかけに 美智子皇后に 興味を持ち、図書館で借りてきた『皇后宮(きさいのみや)美智子さま 祈りの御歌(みうた)』。
 手の赴くまま開いたページには 次のように記されていました。(P.63)


***



 皇后様は、もはや、何かを求めて祈ってさえいらっしゃらないのかもしれません。慈悲の御歌のかずかずにこめられた、《かくあれかし》との願い…というふうに、私は捉えてきていました。だがそれは、御自身の判断によってではなく、その人その人にとって自ずから良きことを祈る、ということだったのでありましょう。そういえば、陛下の御即位十年にあたって行われた記者会見において、今後、両陛下の果たすべき役割をどうお考えですかとの問いに対して、こうお答えになっておられました。


 …さまざまな事柄に関し、携わる人々とともに考え、よい方向を求めていくとともに、国民の叡智がよい判断を下し、人々の意思がよきことを志向するよう常に祈り続けていらっしゃる陛下のおそばで、私もすべてがあるべき姿にあるよう祈りつつ、自分の分を果たして行きたいと考えています。

ーーー皇后陛下お言葉集『歩み』



***



 ここに引用されてある皇后のお言葉に記された
 みこころ は
 そのまま あるべき「まつりごと」… 政治 の姿だと
 思うのです

 そして
 ひと ほんらいの すがた でもあると
 思うのです


 このことばに 照らし出された自らの姿を
 はずかしく思うと同時に
 かく あれるように と
 こころさす
 よい 機会ともなりました



network ではなく flow


ネットワーク
という 言葉は
宇宙の事象(=コト場)をかたどり あらわすには
適切でないのかもしれません


  network
  網のようにつくられたもの


網のように 絡み合い 何かを捕獲するものではなく
もっと自然な
流れ のようなもの
ではないかと


これから つくるべきものは
人と人のネットワークではなく
人の意識やエネルギーの流れ ではないかと


つながり つなげる ものではなく
直接つながりを持たない それぞれの流れが
共鳴しあうことで

  電磁波がエネルギーを伝えるがごとく
  音が媒質の振動で伝わるがごとく

  放射と重力
  圧縮力と張力 として

はかりごとを超えて
おのづから
つくられてゆくものがあるのではないか と


その 宇宙の理(システム/デザイン/デフォルト) をどのように見つけ
それを どうデザインしてゆくか…





【コメント】

しかし 現時点での知見では
宇宙は階層構造になっていて
銀河同士は 立体的な網の目状の「大規模構造」になっているのですよね。
でも その構造をつくっているのは ダーク・マター。銀河同士がつながっている というよりは ダーク・マターとの相互作用で網の目状のネットワークのように見えている 結果的にネットワークされている ということができるのかもしれません。


創造性 という 富

 昨年の秋から年末にかけて いわゆるビオ・ワインと呼ばれるワインを味わう機会に恵まれました。「ビオワインにはビオロジック・ワインとヴィオディナミ・ワインに分類できる」と書いてあるサイトもありますが、簡単にいえば 自然環境に配慮し その恩恵を最大限に生かし 農薬と化学肥料を用いず育てたブドウを 天然酵母によって醸造させたもの。当然ながら味は様々ですが 個人的には 概して優しくこまやかな“味わい”と“つくり”を感じます。最も分かりやすいのは 身体への負担が少ないということでしょうか。どんなお酒も飲み過ぎると「頭にきます」(*怒りたくなる ということではなく、頭が痛くなる ということです)。でもビオワインはいくら飲んでも(*まあ アルコール分解酵素の多寡や個人によってその反応は違うのでしょうが)意識はクリアで 自分の適量を超した場合は翌日に身体(*胴体という意味です。肝臓と胃腸だと思われます)へ疲れとしてだけ現われるのでした。ちゃんと作られた発酵飲料を適量飲んだ翌日は 胃腸の調子が良かったりもします。通常のワインは飲めないけれど ビオなら飲めるという方もいるほどですし、ビオワインによってワインデビューしたことをきっかけに どんどんご自身を解放されている年配の方にも出逢いました。「おいしいお酒とおいしい食事は 意識を引き上げてくれますね」とお話したことを思い出します。

 ただ どんな世界も あるカテゴリーの言葉がうまれると、本質の装いとしてのラベルであるはずのその呼称が 本質のように振る舞い始め、農薬と化学肥料は使っていないけれど 例えば「自然環境に配慮しその恩恵を生かす」という その呼称が現わしていたはずの“本来のベクトル”を失ったものが 作られるということが起こってきたりします(*精神性を失ったビオワイン とでも言いましょうか…。「農薬や(化学)肥料を使わないスタイル」は結果であるのですが 自然と向き合うことなくそのスタイルだけを真似ている方もいるようです)。そういう現状があるため あるインポーターさんは 真っ当なビオ・ワインをつくっている方たちのワインを ビオ・ワインという名称で括るのを良しとせず、そういう生産者さんたちを招いたイベントで 彼らのワインを「自由なワイン」と名づけて紹介していました。

 物事に真摯に取り組む方は 言葉や表現にも敏感なのでしょうか、そんなワインの作り手の一人は 「ワインをつくる」という表現がしっくりこない とおっしゃっていました。ワインをつくるのは 葡萄の木であり 太陽であり水であり土であり風であり 微生物であり 「私の仕事は いいブドウを運ぶだけ。水を向ける ということです」と。ワインづくりを担うものたちが 最大限の力を発揮できるように場を整えるのが仕事である と言っているかのようでした。それは 自然栽培に携わる方達と同じ認識 あり方です。
 名づけることの難しさと大切さを そして 言葉とは思想や価値観をかたどるものであるという事実を “自由なワイン”を通して痛感し また 真摯に考える機会を与えて頂きました。


たらちねの ははそ



台風のような強風が吹き荒れた昨日
電車が止まって帰れないかもしれないと思いつつ、
NPO法人「森は海の恋人」の理事長をとつめる畠山重篤さんが 国連森林フォーラム(UNFF)からフォレストヒーローとして表彰されたことを記念した講演会へ 行ってきました。

畠山さんのお名前とその活動の概要は知ってはいましたが
お話を伺うのは初めてのことでした。

豊かな海を取り戻すには
豊かな森と川と
流域に暮らす人々の豊かな心が必要


牡蠣の養殖業を営みながら
気仙沼湾に注ぎ込む大川の上流に植林を続けている 畠山さんの活動は、
森と海とつなぐ ひとつらなりの流れをつくり育もうとするものです。
それは この「地球の循環」という流れの一部として
人の意識と営みを捉えていこうとするものです。


昨夜の話の中で印象に残ったことのひとつは
現場で伝えてゆく そのあり方
でした。

手長野(てながの)に木々はあれども
たらちねの ははそ(柞)のかげは
拠るにしたしき


「森は海の恋人」
というキャッチフレーズは
郷土の歌人・熊谷武雄さんの この うた を始まりとして
熊谷氏のお孫さんが詠まれた うた から生まれたのだそうです。


今回 NYの国連本部での授賞式へ行くにあたり 手みやげとして
畠山さんは 自ら手がけた絵本を翻訳したのですが
この「森は海の恋人」という言葉に託したものを どう英語で翻訳するか悩んだといいます。そして ある経緯により
美智子皇后から long for という言葉が届けられました。

その後 畠山さんは その言葉を 旧約聖書の詩編の中に見つけます。
(*訳によっては yearnを使っているものもあります。)

慕う(したふ) というニュアンスを持つようです。


The forest is longing for the sea,

The sea is longing for the forest.


森は海を 海は森を 恋ながら
悠久よりの愛つむぎゆく

熊谷龍子




経世済民:与える流れ(その弐)

【3月18日の続きです】

ただ こういうことを書くと
無償行為を勧めているとか
貨幣経済を否定しているように聞こえるかもしれません。
が 私は 「貨幣制度による “与える流れ”の経済」を構築したい と考えています。

お金がエネルギーであるとするなら
より良い流れに 多く注がれてゆくのが望ましいわけです。
次なる創造を生み出すような 未来への希望につながるような 流れ へと 多く注がれてゆくのが望ましいと考えます。
とするなら、自然や宇宙が与えてくれているもの(*エネルギーや水や空気など)は 基本的にはすべての人に等しく無償で提供されるべきですが、人が創造した“本当の付加価値” については それが望ましいものであればあるほど より多くのエネルギーが流れるべきではないか つまり より多くのお金が払われるべきではないかと 思うのです。少なくとも 清貧 であることは その経済が正しい流れをつくっていないことの指標に思えます。なぜなら 清きものに それを育むエネルギーが注がれていない、つまり 清き行為 清きハタラキを その社会が評価していない ことを示しているに他ならないからです。

ペーパーマネーという言葉が 現在の経済システムを揶揄するニュアンスを持って使われることがありますが、ペーパーマネー… 紙幣とは 紙の幣と書きます。
幣とは 神への捧げものを意味します。
そんな素晴らしい言葉をお金に与えながら 私たちはかつて一度も 紙幣を紙幣たるものとして 貨幣を貨幣たるものとして 用いたことがないのではないでしょうか。
人の神性…人の素晴らしい質やハタラキに捧げるもの として 紙幣・貨幣を用いるなら 清貧という概念は生まれようがありません。

  だからといって
  お金の見返りなく与える行為を 否定しているわけではありません。
  自らの意志として 本当の意味でのボランティアとして行われるハタラキは
  活動としての継続性はないかもしれませんが
  人の魂の最も美しい部分を現わし 与えていると思うからです。
  ただ 人のやさしさや弱さを利用して「ボランティア」を強要する という
  矛盾した状況が現実にはあり(*特に閉じられた人間集団においては
  事実上選択肢がない環境が用意されたりします)、
  それがひいては
  お金をもらうことが悪 という歪んだ認識をつくる元になっていたりもします。


見返りを求めることなく
人の素晴らしさに
人の創造性に
それをより育むものとして
そして 未来へと受け継がれてゆくものとして
(それは「祈り」と言うことができるのかもしれません)
私たちの意識/意志のエネルギーを与え 流してゆく そのシステムを
どう構築してゆけばいいのでしょう。

与える行為としての「贈与」も また それが支配の道具となることを考えるなら、
貨幣経済の問題は 貨幣というバーチャルなものを介在していることに由来するのではなく 本質的には 人の意識の問題です。それはつまり ひとりひとりが 自らの内面を観ることなくしては 本当の意味での「与える経済」は実現しない ということだと思うのです。


<いったん おわり>



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