Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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森が想い出させてくれるもの:調和のデザイン


先日 東京駅の近くで人と会った帰りに、丸の内北口改札のドームを通りました。

改装後の あまりの人の多さに、綺麗になった東京駅をゆっくり観ることもなかった私は、この日初めて 東京駅の空間を意識して体験したと言うことができるのかもしれません。

そのドーム空間の心地よさに
私はしばらく ドームの真ん中で佇み、上を見上げたり 通り過ぎる人を見たりしていました。その心地よさは かつて他の場所でも観じたことのあるものでした。なつかしさのようなものと 清々しさと まだ見ぬ景色が交錯するような一種の高揚感と 風のように縦横無尽に通り抜けるなにかと そういったものが醸し出すあっけらかんとした開放感と…。目の前を どこかから来て どこかへ行く人たちに、わけもなく愛おしさを感じます。
それは、NYのグランド・セントラル駅でも観じたことがあるものでした。

どちらもドーム天井の空間。

その中を 不特定の人が移動する“さま”が、
私には そういう「けしき」を抱かせます。

そして いつしか私は、
自分が旅をしていなくても 旅する自由な風に存在を洗われて、
忘れていた大切な何かを思い出すのです。




<東京駅のドーム
こちらのサイトからお借りしました>



<同じく東京駅のドーム
こちらのサイトからお借りしました>

ドーム天井と言えば、教会やモスクを思い出す方が多いでしょうか。

ある林業家の方は ヨーロッパの教会に入ったとき、「これは森を現わしている、森の建築だ」と思ったそうです。

建築の世界ではどのように捉えられているのかは知りませんが、確かに、

アーチ型の天井は、森の中で見上げたときの 木々に包まれている感じや 樹冠から垣間見れる空に よく似ています。天井の上部や壁に置かれた採光窓やステンドグラスは、木漏れ日のような柔らかで幻想的な光を 内側の空間に注ぎます。

ドーム天井を持つ空間というのは、もしかしたら 人が人となる前の森の中にいた時の記憶に突き動かされて つくられたものなのかもしれません。

しかし 私は、教会やモスクの中では たとえ建築的にどんなに素晴らしいドームであっても、冒頭のような心地よさを感じることはないのです。たぶん 宗教が持つ闇のようなものを観じてしまうからなのでしょう。

宗教施設の中では 私は 風を観じられないのです。

ドーム天井でなくても、駅や空港など 旅の拠点となる場所では、似たような感慨に包まれることがよくあります。駅や空港でなくとも 交差点や道路を不特定の人が通り過ぎる様を眺めているときにも 同じようなことが起こります。しかし、その要素に 森を写した(のかもしれない)ドームの空間が重なると、全身が感応するほどの何かを観じるのです。

  森の記憶が蘇るのでしょうか。

  森の記憶と深く結びついているDNAが活性化するのでしょうか。

たぶんそれは、“かつて 調和の中にあって そこに流れていく何かを感知していたセンサーや感覚”が 刺激されるからのような気がしています。

ことなったものたちがつくる世界に身を置きながら ひとつであった、

それを体験として知っていた

あの感覚が…

それを 私は「風」として認識するのかもしれません。

そんなことを考えていたら、
『人間の建設』の中の岡潔さんの言葉を思い出しました。(P.108)


組織のカタチ

この世には 様々な組織がありますが、「組織のカタチは そのまま その場に関わる人たちのエネルギー回路となっている」ことを痛感する出来事が この数年 幾たびかありました。私が知る限り 自律したピア・トゥー・ピア的な組織が存在していない現在において、すべての組織は多かれ少なかれ ひとの意識エネルギーを集め その組織や組織の中心人物のために使われているように観じます。

 

組織が良いものであるのなら 多くのエネルギーを集約し増幅するシステムは歓迎するべきもの、と思う方がいるかもしれません。正しい目的のためなら 良いのでは、と。

しかし 私は、目的が どんなに素晴らしいことであっても どんなに善きことであっても、他者のエネルギーを集めて使うことは 正しくないと考えます。

肉体と同じく 個々人のエネルギーは個々人の決定権の下に生かされ、流れ行く先は「宇宙の流」(とでも呼ぶべきところ)であるのが自然であり それは結果的に最も効率的で最も合理的な道筋だと 観じているからです。

自然の営みにおいては 与えることが まず先にありきです。

集めるのではなく 与え 流すことで、それが向かい行き着く 宇宙の流れ/宇宙の源/宇宙の水面(みなも)から 新たなる創造のエネルギーが流れてくる、というのが自然のスガタ(素型)なのではないでしょうか。そう捉えるならば 神と人間の契約において誕生した(あるいは契約から派生した)であろうギブ・アンド・テイクという概念は 非常に不自然です。

思うに 本来の契約とは、ギブ・アンド・テイクのような ひとの間の/ひとと神の間の(信用の)交換の概念ではなく、個々の存在が宇宙の理を介して(*人によってはそれを「天の下で」と表現するかもしれません)創る コトの場(事場)・ひとすじの道のようなもの ではないでしょうか。

 

いま 「ひとつ」ということについて いろいろ考えをめぐらせているところなのですが、個となった(=異なった)「ひとつ」「ひとつ」のモノ・コトは それぞれの領域において 宇宙という“統べる「ひとつ」”に直結していて、個となった「ひとつ」は 宇宙の「ひとつ」(のシステム)を介して 他の個となった「ひとつ」へ関わっている、というのが本来の姿のように観じています。

ですから ひととひとがこの世で協同するカタチもまた、個となった「ひとつ」「ひとつ」が 宇宙の「ひとつ」を介してつながるようにつくられるのが、自然というか理に適っているように観じるのです。そして 幸か不幸か 現時点ではそういうカタチはまだ現わされていません。

 

たぶん お金というエネルギーのシステムにも 同じことがいえるのだと思います。

 

ここに記したことは多分に抽象的であることは自覚しています。

これを どのように社会の中で 具体的なモノコトとして 現わしていくのか…。

 

すべては これから です。

 

 

 

【補記】

 

私が 未熟な思考をここで記しているのは、“個となる「ひとつ」”と“宇宙の「ひとつ」”のつらなり・相互関係を信じているがゆえの 一つの実験でもあるのです。この数年、直接 言葉を交わさなくとも、私の考えを補完し新たな思考へとコマを進めるような 別のひとの考えに偶然出会う という体験を重ねてきました。身体を持ったひと同士が直接出逢うことでしか生まれないものがあることは 理解していますが、直接逢わずとも 宇宙というシステムを介して お互いが恊働することもできるのだと 観じています。私のブログにコメント欄がないのも 同様の理由からなのです。

果たして私という存在が 個となる「ひとつ」と成れているのかどうかは あやしいですが、少なくとも その方向へ意識のベクトルは向いています。

 

ついでに言うなら、

数多のものが “ひとつ”のなかで 意図せず連動している

そんな印象が日ごと強くなっている 今日この頃です。






【補記】
2013/07/20 一部本文を修正しました


 

ピア・トゥー・ピア(Peer to Peer)=自律


「議会と首長」と題した記事の中で、失敗できることや失敗を想定することは ものごとのデザインに不可欠ではないか、と書きました。直近の2つの記事の中で触れた「ピア・トゥー・ピア」という概念は それにふさわしいもののように思えます。
中心がないモノカタは、それを構成するものが いくつか壊れたり機能しなくても 全体としてのはたらきは それほど損なわれることがありません。つまり いくつか失敗があっても 全体にダメージがそれほど及ばない ということです。そういう環境においては、失敗する恐怖から かなり自由になれるのではないでしょうか。

以前 ピア・トゥー・ピア的な発想に基づいた幾何学の模型をつくったことがあるのですが、その球形を構成しているパーツのほぼ半分が取り除かれても 残り半分の構造は維持されたままでした。その幾何学模型を構築した方は、建造物の重力を地面に担わせてきたこれまでの方法は 過去のもの、と認識されていたようです。

「圧縮力」と「張力」という言葉を その方は使います。

古い日本の建造物の どっしりした大黒柱は 人の心に訴えるものがありますが、大黒柱によって支えられた建物は 大黒柱を失えば その構造を保つことは難しいでしょう。

なにかひとつに依拠する という発想が 終わりを迎える時期なのかもしれません。

そしてそれは、ひとりひとりが のびのびと 自由にいき、そういう個人によって 動的に安定している社会がうまれる 時代の始まりなのかもしれません。



【追記】
 「集まルーズ」というコトバ
 「集ま(る)」は圧縮力 「ルーズ」は張力
 と 捉えることもできそうです


“イの理” の デザイン

 


いまは こんなにかなしくて

涙も枯れ果てて

もう二度と笑顔には なれそうもないけど…

 

 

先日、中島みゆきさんの「時代」を取り上げた番組が 放映されました。

3.11後の被災地訪問で 少なからぬ人たちが歌っているというその曲。
ある高校の音楽部のメンバーは 避難所の方から


「今まで瓦礫の山ばかり見てて涙も出なくて

 でも あなたたちの歌を聞いて 震災後 初めて涙を流すことができた。

 自分の中で思いが動いたのは あなたたちの歌のおかげだよ。ありがとう」


と伝えられたそうです。

また ある歌手の方は


「乾き切った砂漠に水をぱーっと入れたような感じで

 染み入ったんでしょうね 人の心に。

 ポロポロポロポロと 涙を流されている方が いっぱいいらっしゃいました」

と話されました。

この曲を自分のレパートリーとして歌っている方は

 

そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ

あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ

 

という箇所を聴くと 涙が自然とぼろぼろ出るのだそうです。

 

 

「時代」は私の好きな歌の一つですが、今回の放映によって、堅く閉じたひとのこころを 自然に とかし ひらかせていく歌というものがあるのだと、強く観じたのでした。歌う人によって多少の差はあるかもしれませんが、基本的には誰が歌っても ひとのこころにふれる ある意味 普遍的なカタを持った歌 普遍的なカタを現わした歌、なのだと思います。まさに、番組の中で流れる 「時代」は「多くの人に歌い継がれる間に 祈りの曲となりました」というナレーションそのままに…。

 

   いのり とは イの理 イの流

   いのちの おのづからの流れ そのものに 添うコト/添う場

 

歌は 言葉とメロディに 歌う人の声が乗って この世に現わされます。

歌う人を問わず ひとのこころにひびくうた というのは、「ことばの はたらき」と「旋律の はたらき」が “いのり”になっている ということなのかもしれません。

 

   素粒子と波動 そして そのオオモトのエネルギー場

   それらが いのち に 合って/遇って いるのかもしれません

 

   私には 「時代」という うた が

   自然栽培の農作物 と 同じモノ(=同じ現象)に思えるのでした

 

 

ことば や 旋律 というカタ/デザインに そういうはたらきが できるのなら、
きっと 同じようなはたらきができる 社会のカタ/デザイン というものもあるはず…、と ちょっと我田引水的ではありますが そんな気持ちになり こころ新たにしたのでした。

 

 

1975年に発表された「時代」。

中島みゆきさんは ある時期から この曲をコンサートで歌わなくなったそうです。
そして21年ぶりにファンの前で歌ったのが 2010年(から2011年の年初にかけて)のツアーでのこと。2011年秋の「夜会」をはさみ、2012年の終わりから今年の年初にかけて行なわれたコンサートツアー「縁会」で、通常は前回のコンサートで歌った曲はセットリストに入れないのだけれど この曲だけは今年も歌いたい思います と前置きして始まったのが、「時代」でした。

 

 

つち と ひと


前回のブログに記した うぶすな という言葉。

それは 単に その人の出生地や 土地の守り神ということではなく、そこにあるものを育み活かすはたらき と定義しました。私は その「うぶすな」というはたらきを、固定され決まったものではなく、人が関わることで 深化/進化し変化していくものだと考えています。

 

自然栽培歴30年の方は 土は そこに働きかける人の意識によって役割が生まれ それに応じて変化していく とおっしゃいます。具体的に言うなら、人が畑としてはたらきかけ育んだ土地は畑になっていく ということです。

その方の畑は 祖父の時代に入植した 比較的新しい農地で、火山灰土の お世辞にも恵まれた土地ではありませんでした。しかし その方の代になって 肥料も農薬も使わず自然のはたらきを活かして作物を育む自然栽培の畑としての経験を積み重ねた結果、周辺の農家が石灰などを投入してPHを調整した土地よりも 酸性度が低く、雑草もほとんど見られない “作物を栽培するための場”となっています。通常 雑草の無い土は乾燥しており 風雨によって流出・飛散するものですが、その方の畑は 畑としての土の構造がしっかりと出来上がっているため 水持ち水はけがよく 風雨や日照りといった天候の変化にも 柔軟に対応できるようなのです。

そういった一連のことがらを指して その方は「畑に進化した土」と表現するのでしょう。人のはたらきかけや意識によって 大地(など物質や生物)の潜在能力が引き出される のかもしれません。

 

ですから 長年農地として育てられた土が 放棄され まったく別の用途に使われることは、その土地の進化や経験を無に帰すこととも言えます。もちろん 過去の農地すべてが 現在と未来の農地である必要は無いのですが、土地というものを考える時に 大地と人の営みによってそこに蓄積されたものを ひとつの財産として真摯に受け止め 考慮しないのは あまりにももったいない と思うのです。

 

それは たぶん 農地に限らず すべての土地 大地について言えることではないでしょうか。例えば 私たちが まちなみの急激な変化に対して抱く感慨や思いも その場に蓄積された何か “営み”という時間によってしかつくることのできない財産のようなものを 感じるからこそ、のような気がするのです。

 

また そういった特定の限定された場所に留まらず、“地球という大地”と人の関わり いえ 地球とそこに存在するものたちの関わり によって育まれつくられていくものもあります。地球の環境が、初めから与えられた不変なものではなく そこに存在するすべてのものの関わりによって変化し 現在の姿がつくられているように…。

現在の地球環境も ある部分は 人の意識が作り上げたものとも言えるわけで、もちろん 人だけが地球に生きるものではありませんが 人の活動を考えるならば 環境に与える影響はかなり大きく、人が どのような意識で地球という大地と どのような関係を育んでいくかは 今これからの地球にとって重要なことのように思われます。

 

***

 

昨日届いたメルマガに 経済における「不動産」の重要性について記した文章がありました。それは 投機対象としての不動産ではなく、私たち全員がその上に暮らし そこから発っせられるものの影響を受けて生きている 「大地」としての不動産 についてです。そう捉えるなら 経済のしくみが不動産と不可分に結びつくことは 理解できないことではありません。しかし、現状のシステムが 理に適っているとも思えないのです。

 

大地は 地球は、人がつくったものではありません。

が、人が生きる場として用意されたもの と言うことはできそうです。

用意されたもの という表現が恣意的に響くなら 人が生きて暮らす場 としておきましょう。

そうであるなら 人が大地を所有する という概念は 適切ではないように思えます。

また 現状の技術に基づきこれからのことを考えるならば、大地を掘り起こし 地中のものを売買するという行為は 少なくとも過去のものであり、その行為が 自らが拠って立つ礎を破壊している という認識を持つ必要があるようにも思えます。

 

本来 富とは 人が大地(and/or 宇宙の中の地球)との関わりのなかで育み作り上げていくもの なのではないでしょうか。それこそが 人の創造性であり 真に価値あるもの。不動産が富なのではなく 不動産たる大地や地球の上で 共に作られるものこそが 富。その視点から あらたな経済のしくみをつくれないものでしょうか。

 

土地所有に拠るしくみではなく その場で育まれうまれる「富」に拠るしくみ を。

 

二宮尊徳翁が言う「徳」もまた そんな「富」を意味しているように思われるのです。

 

 

うぶすな

この週末 近所にアトリエを移された建築士の方を訪ねて 興味の赴くままにおしゃべりしているうちに、一見バラバラでまとまりのない私の関心事が 「うぶすな(産土)」という言葉でつながることに気がつきました。

 

 

自然栽培も

天然菌を生かした食品やお酒も

山も森も

自然素材の布も 染めも

エスニックな音楽も

伝統的な手仕事も

旅も

歩くことも

建物も

まちづくりも

学びの場や在り方も

お金の流れも

歴史も

地質や地理も

磐座や神社なども

うたも

ことばも

地球のことも

宇宙のことも

いまは 思い出さない 他のことも

 

 

   はぐくみ いかす はたらきとしての 「うぶすな」 という コトバ

 

 

先日 お話を伺いたいと申し込んだ あるフレンチレストランのオーナーには 「テロワール」という言葉で 伝えることができました。

 

テロワール(terroir)は フランス語で土地を意味するterreから派生した言葉。

スペイン語のtierraは 「大地」の他に「故郷」や「母国」を現わします。
「大地」を意味するイタリア語のterraは 最初のTを大文字にすると「地球」のこと。
terreも 最初のTを大文字にすれば「地球」の意。
terroirは男性名詞ですが terreもtierraもterraも女性名詞であるのが 興味深いところです。


 

   いのち と 限りなく同義のように 今の私には思えるのです


 

うぶすな として 貨幣を使うことができれば…

うぶすな として 社会をデザインできれば… と思うものの、

その具体的なカタチは まだ 見えてきません。

 

 

ひとの創造性による仕組へ

 昨年末から日経平均株価が一万円を超え、「2013年から日本はバブル期に突入する」と言い続けてきた方の予測通りの展開になってきています。数ヶ月前には 地域によっては不動産のマーケットで売るものがない状況となり 既に“バブルのシナリオ”の幕は切って落とされていたようです。その方の見立てに拠れば、これから 2015年までに行われる日本郵政株式会社の株式上場ころまで 日本の地は バブルの舞台としての役割を果たす可能性が高いとのこと。それが、現在 世界の経済を動かしているパワー(=主体、意識)が 作り上げたシナリオであり、より広い視野で観るなら 善悪を超えた流れ(*必然ということではなく 選択の結果としての流れ ということです)として捉えることもできます。つまり、これからの2年ほどの間に 実体経済から大きく乖離して刷られた世界中のマネーが 日本に流れ込んでくるというのです。現在のシステムのまま そして現状の方向性のままなら、その大量のお金は 日本国内の格差を 更に大きく、おそらくは回復不可能なまで広げてしまうことが予想されます。

 その方の見立てが正しいかどうかは 今後の展開で明らかになっていくのでしょうが、もしも正しいとするなら、この “あらゆる方面から求められ用意された状況”を どう生かすのか が、私たち日本人に問われる「とき」が始まった とも言えるのです。具体的には、マネーを 通貨制度を “人を育む創造的なもの”に変えていけるか が、言葉を変えるなら 通貨がアイ(愛)のエネルギーとして機能するシステムをつくることができるか が、問われているのだと思います。
 仮に その見立てが正しくなかったとしても、現在の経済の仕組が 変わるべき時期に来ていることは 誰の目にも明らかです。

 社会の劇的な変動は 通常 社会の弱者に最もしわ寄せが行くことを考えれば、貨幣経済を否定することは賢明な策とは思えません。とするなら 通貨というものが まったく新たなハタラキを担うものとしてうまれかわることが望ましいのではないでしょうか。

***

 実態を持たないとされる“数字のお金”も 実は表に出ていないゴールドに裏付けされている という話を耳にすることがあります。仮にそうであったとしても ゴールドという 人の命や創造性を育むこととは無関係なモノを根拠にした貨幣制度は、少なくとも 未来への希望をそこに見出すことはできません。

 ちょうど一年前、ある方が 裏付けのない数字だけの「架空のお金」の総額が「34ケタになるとも言われている」と書いてあるのを目にしました。その後 その桁数が増えた記述もあったので 実際のところは把握できていないのでしょう。ただ、その天文学的な「34ケタ」という数字に見覚えがあったので調べたみたところ それは 宇宙創成時のインフレーションに関する数字でした。インフレーション理論では、インフレーション前の宇宙の大きさが 直径10のマイナス34乗cmであり、インフレーション直後には 宇宙は10の34乗倍以上の 直径1㎝以上になったとされます。ということは いま地球上にある 数字としてのお金は 文字通り天文学的な インフレーション規模のもの とも言えるのです。

 その天文学的な数字は ある意味では 未来の富を先売りした/先取りした と捉えることもできます。その架空の数字を 現状に合わせて 消去する というのが  一般的な考え方なのかもしれません。ただ、その「先売りされてしまった富」を 「予言された富」に変えることもできるのではないだろうか と、思ったりもするのです。

 具体的な方策は浮かばないそのアイデアに 少しばかりの可能性を感じたのは、「ある国の政府が 国民一人あたりにつき 一生涯の労働力を担保に 一定の金額のお金を刷っている」(*この真偽は不明です)という趣旨の記述を見たときでした。人をモノとしてしか見ていないその在り方に 未来は感じませんが、人という無限の創造性ならば もしかしたら天文学的な数字の裏付けとなり得るのではないだろうか と思ったのです。この宇宙が 天文学的な成長を遂げたように、人の創造性もまた 天文学的な成長を遂げることができるのではないだろうか と。現在(いま)という「とき」を ひとの創造性の創成期 と捉えるのなら、尚更 そう思えるのです。


 「先に振り出されてしまった富」転じて「予言された富」が 「実態のある富」に変わるまで、もしも本当に市場に出ていない“隠し金(ゴールド)”があるのなら それを裏付けにした 橋渡しのシステムをつくることができないものでしょうか。金本位制の過去に戻るのではなく、“人の創造性を裏付けとする貨幣制度”へつなぐための ゴールドを人の創造性の象徴として位置づける 金象徴制のシステムを。もちろん ゴールドを介在させることなく事を運べるなら それに越したことはありません。ただ これだけ 日本各地に様々な“隠し金”の言い伝えや噂が存在するということは それらの今日的な使い道がまだ残されているのかもしれないとも思うのです。




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