Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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ともにいきるカタチーーひとのしくみへ

私が住む地域に 世界的な“市民工房のネットワーク”の拠点があることを、昨夜 家人が教えてくれました。そういえば少し前 元アキバ少年を自認する家人が やや興奮気味に そういうネットワークや場所があると話していたような記憶があります。
確かに 「個人による自由なものづくりの可能性をひろげるための実験工房」というキャッチフレーズは 魅力的です。
実際にどういう場所なのかを見るために 一度 工房を訪ねてみたいと思う一方、
なにか すっきりしないものが 私の内に横たわっていました。
そして ふたご座流星群が極大だったとされる夜が明けた 今朝。家人とその工房のことを話していたとき、私の中にあった違和感が少しずつ明確になっていきました。


上記の工房と同様に、まちづくりの分野でも あるいは他の分野でも 世界的なネットワーク活動が日本でも展開されており(*これは今に始まったことではありませんが…)、魅力的な内容のものが少なくありません。しかし どの場合においても なにかひっかかりを感じ、それらとは距離を置いてきました。
そのひっかかりとは たぶん (既存の)ネットワークというものに対する違和感なのだと思います。「素晴らしい活動を 世界に広げる」という啓蒙主義的な匂いを そして ひとつの枠に囲い込むような気配を その背後に感じるのでしょう。今朝気づいたこととは、それは一神教そのものである ということでした。ひとつのアイデア・概念を世界に広める という意味において…。それはまた 増殖のシステム/コピーの文化であり、創造性を育むこととは 根本において相容れないような気がするのです。私から見れば 本社ー支社(本部ー支部)という組織やフランチャイズなどの形もまた 一神教のカタであり、少なくとも これからの未来には ふわさしくないものに映ります。また 政党というものも(そしてもしかしたら“政党に基づく議会制民主主義”というものも) 私には古き世のシステムに思えます。
未来においては、決定権と責任を持った個々人が 臨機応変に協力してものごとを行なっていく社会であってほしいと思うのです。個人が組織やシステムに合わせるのではなく、随時 個々人をつなぎわたす仕組やカタチが生まれてほしいと願うのです。現在あるものでいうなら アライアンス(alliance)やチーム(team)というカタチが そのイメージに近いでしょうか。あるいは ミュージシャンや演奏家が 随時ユニットを組むスタイルが 最も近いのかもしれません。

この一神教的なシステム… いえ 一神教が群雄割拠しているとも言える多神教でもそれは同じことで 結局は「神のシステム」ということなのでしょう… 神のシステムは、提供する側の都合や論理が優先する 財やサービスの在り方にも反映されています。財やサービスなど社会の富は 個々人をベースに提供されるのが 本来の姿だと思うのですが…。
現在においてはコンピュータ関連の財やサービスがまさにそれで、使い勝手の悪さは言うまでもなく 使っている時にフリーズすることがあるような“不良製品”を 商品として販売しているのは、非常に不思議な現象です。

もちろん 技術が追いついていない という側面もあるのでしょう。
ひとの意識が成熟していない という側面もあるのでしょう。

あらたな世の 人と人との恊働のカタチがどういうものなのか、具体的な姿は まだ見えていません。ただ これまでのものの捉え方を超えなければならない ということだけは わかります。これまでのカタチや概念から抜け出して 自由にならなければ あらたなものは見えてこない ということも。つまりは 過去はもとより周りを見回しても 仕方がない、のかもしれません。

そんなことを考えていたら、「12月3日に ローマ法王ベネディクト16世が 世界政府と新世界秩序の設立を求めるスピーチをした」という記事を目にしました。
この6月にはヴァチカンのコンピュータ・システムにアクセスできる人物がヴァチカンから失踪した というニュースもあり、“失踪”は 死亡を意味することもありますが、いよいよ これまでの世が 神のシステムであったことが 誰の目にも明らかになってくるような気がします。

これまでの神に替わって 神の意識を脱した「ひと」が あらたなよのしくみをつくるときがきた ということなのでしょうか。
私には 来年の出雲と伊勢で行なわれる式年遷宮が その宣言の儀であるように思えるのです。もしそうであるならば、年が改まるまでの間に(*人によって「新年」の時期は様々でしょうが 遅くとも4月には どなたにも新年が来ていることと思います) 人は 神から卒業しなければならない ということになりますね。

来る2012年12月21日という日に対して 心穏やかでない方たちもおられるようですが、もしかしたら マヤ暦が意味するところは 神の世界の終わりであり、ひとのよの始まり なのかもしれません。




【コメント】

マヤ暦に関して 世界の終末を信じているように思われる人 また それを待ち望んでいるように思われる人 あるいは その時に他の惑星や宇宙から関与があると思っている人 など様々な方がいるようです。でも いずれも 神のシステムの思考パターンであり、自分以外の何ものかに自分の生を委ねた姿ではないでしょうか。




【コメント】(2012/12/17)

NASAが12月22日に発表予定だったとされる映像「Why the World Didin't End Yesterday」が予定より10日早く公開されたようです。




 

四百年の森

 

 

予てから訪ねてみたいと思っていた森に 先日 伺うことができました

「最も美しい森林は また最も収穫多き森林である」
という ドイツのアルフレート・メイラーの言葉を実践している林業家の方の森

針葉樹の人工林は 下草がなく 生態系が貧しい
というイメージが いっぺんに払拭されました

  広葉樹と針葉樹の保水機能には 差がないこと
  山の保水機能を担い 土壌流出を抑えるのは 下草の役割であること

  針葉樹の人工林にすると山が崩れやすいというのは
  その適地が もともと崩れやすい土壌であることから生じたイメージであること

  広葉樹にはコナラのように
  アレロパシー(他感作用)によって周りに下草が生えないものもあること

  などなど・・・・・

洞のある樹や倒木など商品価値がない樹々も 広葉樹と共に森林全体の生態系を豊かにするものとして残された森を、育んできた速水林業の九代目・速水亨さんに案内してもらいながら 歩いて行きました

その森では 243種類の植物が見つかっており
明治神宮の森の246種類と同等の 植物的豊かさを保有しています

昨年初めてお会いした時
生態系が多様であることは 病害虫の被害を抑えることができ 森林全体の健全性につながる、と おっしゃっていたのが とても印象に残っています


森を訪ねた日
屋久島と一二を争う降雨量があるその地は雨

前日までの晴天が続いてくれていたら という気持ちは
森のなかで 森に響く雨音を聴いているうちに いつしか消え去り
雨に濡れ 雨に煙る 美しい森を楽しんでいました


現在 百年の樹が育っている 速水林業の森
速水さんは 更に四百年の樹を育てることに挑戦しています

その「四百年の森」の構想が
二千年後の法隆寺の木材をどうするのか というある方からの問いかけに対する
速水さんの ひとつの応えであることを、
翌日の講演会で知りました

四百年
二千年…
途方もない時間軸のように思えますが、
責任ある社会の運営ということを考えれば できるかどうかは別として そのくらいのスパンで物事を捉える視野を持っていたいものです

  人が関わることで
  自然のままでは生まれ得ない多様性を創出することができる---

速水さんの本を読み 森を歩いていると
彼が行なっている森づくりが 本来の政治 本来のまつりごと の在り方と重なって見えてきます



個性


先日 精神的なエネルギーの負荷がかなり掛かる出来事がありました。
外出先から戻ると すぐにシャワーを浴びたくなり 脱衣所で着ていた服を脱いでいたところ、服に何か異変を感じます。

目を閉じて 一枚一枚着ていたものを観じてみると、どれもこれも エネルギーの負荷が掛かっていることが分かりました。ただ 不思議なことに 絹のものだけは 変わりなく 普通のままだったのです。

その後 「衣は大薬」というスタンスで染めをしている方と逢う機会があったので その時に上記のことを話してみると、「綿は吸収 麻は通す一方 絹は吸収して発散する」とおっしゃいました。「だから 一番肌に近いところに絹をまとうことは 自分を守ることにもなるんです」。

あの日 私が身につけていたのは 綿 麻 絹のものでした。
そして 綿と麻の違いは判別できなかったものの 絹だけはダメージを受けていなかったのは 私の認識としては確かなことです。

今年の夏は 身体が綿を拒否し 麻の衣ばかり選びました。
3.11のとき まとっていた草木染めの絹のショールが 私に安心感を与え 心身ともに守ってくれた実感がありました。
“冷えとり”では 絹の靴下の上に綿の靴下を重ね履きします。


どうやら素材によって はたらきが異なるようで
そういうことも含めて
宇宙が物質に託した“デザイン”を生かして
素材を利用し
ものをつくっていけるようになったらいいですね。

見た目や形が先行するのではなく

たぶん それが 本当のデザイン なのだと思います。






【コメント】

ちなみに ダメージを受けなかった絹の靴下も 3.11のとき守ってくれたショールも ともに茜の染めが主のものでした。
素材プラス染め の はたらき が作用したのかも しれません。

可視光のなかで最も波長の長い電磁波 が 赤。
昔から魔除けの色とされています。
大地のエネルギー 生命のエネルギーと呼応するのかも…。


“通貨”をあらたむ


「もう壁は立てない
 というのが
 これからの基本になると思います」


先日放映された番組の中で ある音楽家が、音楽などの芸術を これからどういう形でお金に結びつけていくか について語っていました。
これまでは 音楽や絵や映画の周りに壁を立てて それに触れることの対価としてお金を求める図式だったけれど、インターネットが普及し 特に音楽は無料で聴ける時代になった今となっては 壁をつくっても無駄であり、「どうぞ自由に聴いてください」ということが前提になるのではないか。インターネット空間の中で 従来通りに壁を立てている人もいるけれど 自分はそうではなく、可能な限り良い音でコンサートをネット配信することも含めて どんどん聴いてもらう。その上で 演奏や音楽を楽しんだり いいと思った人が お金を払う、という 「おひねり」のようなカタチになっていくのではないだろうか とおっしゃっていたのが印象に残っています。

おひねり的なお金のやりとりが 既にいろいろなところで散発的に行われているのは知っていました。昨年から使っている暦の一つも 支払う金額をそれぞれが決めて振り込むカタチをとっています。しかしこれまでは そういうあり方が ひとつのオルタナティブではありえても 未来的なものに思えなかったのですが、なぜか今回は 通貨というもののあり方を変える可能性として 私の中で改めて認識されたのでした。

たぶんそれは、
交換やギブ・アンド・テイクではなく
また いわゆる贈与とも違う
相手への敬意や感謝であったり 相手を育むものであったり といった、これまでには存在しなかった「ひととおかねの関係」の萌芽を 自分なりに そこに見出すことができたからなのだと思います。まさに 文字通りの “幣としての紙幣” の可能性を、その方の言葉のうちに また 現在(いま)という「とき」に感じ取ることができたからなのかもしれません。

ですから お金のやり取りがすべて「おひねり」のように お金を出す側に委ねられるのがいいとも そうなるとも思ってはいません。お金のあらたな可能性は 金額の多少やその決定権ではなく お金というものをどう捉えるか という点にあると考えるからです。

そういった 通貨の意味やはたらきを新たにするような試みとして ずっとご紹介したかったものに、韓国はソウルの「敷居のない食堂」があります。今春にその存在を知ってから 文章にしようと思い続けながらも なかなか手が動かなかったのですが、ようやく「とき」を得たようです(笑)。既にいろいろなところで紹介されているので ご存知の方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。現地を訪ねたことのない私が以下に記す事柄は そんな既出の情報に拠ったものです。

そのさきへ


 この7月に入り 脱原発を求める多くの人々が自らの声を届けるために行動している現実を 大手メディアも報道するようになってきました。7月16日(日)に代々木公園で行われた集まりには 主催者発表では17万人が足を運んだようです。脱原発の動きに乗ってセクトによる勧誘が活発化している という話も耳にしてきましたが、2度ほど抗議の場に身を置いた者の印象としては そういう組織の人たちももちろんいますが これまでのその種の活動では見られなかったであろう ごく普通の人たちが 一個人として足を運んでいる様子がうかがえました。それは 日本のひとの中である変化が起こっていることの 現われなのだと思います。
 そのような動きを チュニジアのジャスミン革命になぞらえて 紫陽花革命と呼ぶ人たちもいます。
 ただ、ジャスミン革命を端緒に中東で展開したアラブの春と呼ばれる“民主化運動”とされる一連の動きに 多くの人が信じたがっている美しい物語とは違う側面を観ている私には、手ばなしでその命名を支持する気持ちにはなれません。どんな場合もそうですが 集まったエネルギーを自分たちの利のために使おうとするものは 存在しており、そのために “正義”をまとって事を起こすものたちも いるのです。(これまでの印象では 官邸前での抗議行動を呼びかけている人たちは そのあやうさを理解しておられるようで、落ち着いた対応をされているように見えます。)

 官邸前で また 幕張の会場で また 映像の中で 原発反対を訴える声を聞きながら、私の脳裏には ある一人の男性の姿が浮かんでいました。

 1968年。
 フランスでは五月革命が起こり 日本でも学生運動がピークを迎えていたそのとき、運動の最中に身を投じ 反帝全学連の委員長に就いていた故・藤本敏夫さんは 大きな挫折感を抱いていたと言います。

   学生運動の燃えさかった六八年、
   人びとが最も大きな幻想を、この動きの中に求めていたであろうそのころ、
   何度も彼は、心の内の大きな喪失感について語りました。
   いくつもの大きな行動の先頭に立ち、
   体に傷を負うことも、警察につかまることも、決していとわなかった彼が、
   実は、この行動のかなたに光が見えず、
   何かを産もうとする可能性を秘めた混沌を前に、
   何ひとつ明示できずにいる自分自身に、
   どれほどか苦悩していただろうことを、今もありありと感じることができます。

   <『農的幸福論』(加藤登紀子・編)より P.1~P.2>


 その後の実際の挫折を経て藤本さんが辿り着いた「農」と いま原発を巡って多くの人の声が求めているものは その根底において「いのち」というものによってつながっています。

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