この半年ほど 服飾デザイナーであるコシノ三姉妹の母を主人公にした連続テレビ小説『カーネーション』の再放送を観ています。『あまちゃん』終了後に「あまロス」となった家人が その心の穴埋めからか 以来 過去のドラマの再放送を録画して観ており、その恩恵というか影響で 『ちりとてちん』は時々覗き観る程度だったのですが その次の『カーネーション』は結構はまってしまいました。
主人公の服に対する姿勢が、洋服づくりを志した頃に洋裁の先生から言われた
「ほんとうにいい洋服は 着る人に品格と誇りを与えてくれる。
人は 品格と誇りを持ててはじめて 夢や希望も持てるようになる。
いい? あなたが志している仕事には そんな大切な役割があるのよ。」
という言葉に支えられているからでしょうか、もともと服には興味があり おそろかにしたくないものの一つと思ってきた私ですが、改めて 「服の大切さ」や「自分にとっての服」ということに意識が向くようになってきました。
ときどき 「(大切なのは精神性であって)物には興味がない」というニュアンスのことを口にされる方がいますが、そんなとき私は ちょっと奇妙な気分になります。「意識とカラダ」「心とカラダ」「精神とカラダ」は影響し合い共進しているということを このところブログでも書いている私にとって、物と精神もまた影響し合い 共振/共進するもので 分ち難く…いえ 分ちえないものです。ですから 精神性を大切にされるのであれば 物も同じぐらい大切にされるのが自然ではないだろうかと 思うわけで…。
なにも 物を買いあさることを勧めているわけではありません。また、空腹を満たし 寒暖や雨露をしのげるものがあるだけで ありがたい、という心持ちを否定しているわけでもありません。ただ 物に真摯に向き合うことについて 問うているだけなのです。(かく言う私も 物に真摯に向き合えているわけではなく まだまだ扱いが雑…。そんな自分が今後どのように変化していくのかを楽しみにしています。)
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一言で「物」といっても 大小さまざまなものがあります。その「大」なるものとして思い浮かぶのは 建築や都市空間でしょうか。
先々週の金曜日の朝 録画していた『カーネーション』を見終わった後テレビを操作していると、関東大震災後の帝都復興計画についての番組が 画面に映し出されました。英雄たちの選択「関東大震災 後藤新平・不屈の復興プロジェクト」です。
番組の途中から観て 途中でスイッチを切ったので 断片的な内容しか分かりませんが、後藤新平氏が理想とした復興計画を 幾度もの抵抗や反対を受け 縮小や変更をよぎなくされながらも 実現していったその「選択」をめぐる番組のようでした。私がちょうど目にしたのは、国のための理想の帝都計画の予算が 地方に支持基盤を置く政党から 東京に多額の予算が集中することへの異議が出て 大幅に削られ、更に都市計画に不可欠な区画整理事業からも ほとんど国は撤退、それを支えたのが 後藤氏と共に仕事をしたことのある東京市長・永田秀次郎さん、という場面でした。
区画整理を実現するには 地主から土地の一部を無償提供してもらわなければなりません。そういう困難を受け入れてもらうためにも 永田市長は 次のように市民に直接呼びかけたそうです。
「市民諸君
この事業は実に我々市民自身が
なさなければならぬ
事業であります
父母兄弟妻子を喪い
家屋財産を焼きつくし
道を歩まんとすれば道幅が狭く
身動きもならぬ混雑で
実にあらゆる困難に
出遭ったのである
我々の子孫をしていかにしても
我々と同じような苦しみを
受けさせたくはない
これがためには
道路橋梁を拡張し
防火地帯を作り
街路区画を整理せなければならぬ
これが今回生き残った
我々市民の当然の責任であります」
震災復興のただ中にあり 2020年のオリンピックを控えた“今の日本” を生きる私たちにも訴えかけるものがあるなぁ、と思いながら 番組の途中でテレビを消し、予定の外出をしたのでした。
[つづく]