人間が抱く 「はしわたすもの」や「移動するもの・移りいくもの」に対する畏れのはじまりであり根源は、死 ではないでしょうか。次第に年老いていくことも 歓迎しがたい変化ですが、それもまた 年老いた先に死が待っているがゆえの嫌悪や恐怖とわかちがたく結びついているように思われます。
中沢新一さんの『人類最古の哲学』の導入部分で、神話の語り方を考察する例として 人間が死すべき存在になった理由を語る コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの物語が挙げられています。また それと同じテーマを語る インドネシアやベネズエラの民族の神話が紹介されています。いずれも 死は 人間の愚かさのためにもたらされたもの、という描かれ方をしているように、はじまりの頃 死は歓迎されないものと認識されていたようです。その中で興味深いのは テネテハラ族の神話で、死というものを客観的に捉え 思考により死に対する否定的なものを乗り越えようとしている姿勢が見られます。
人は 生命は、個々のものが死すべき存在であるがゆえに進化し 変化し続ける環境に適応することができたわけですし、死は 「シ(=息、命)去(い)ぬ」が語源であるという捉え方もあるように 消滅ではなく通過点であるとするならば(*私はこの立場です)、死は決して否定的なものではありません。たぶん そのことは はじまりの人類も直観し 知っていたのだと思います。しかし その直観を確信しうるだけの脳の状態になるには まだ時間が必要であったため、人間は 神やあの世 そして宗教というものをつくって、(個となった存在を超えた世界についての)自らの直観を深く思考するための土台と安心を得ようとしたのではないでしょうか。
だからといって 人が死の恐怖から逃れることはできませんでした。
死に対する恐れや不安から ひとは無意識に 安定を求めます。
その意識が別の領域で現われると、移動して生活することへの恐れや不安や蔑視が生まれ、定住し安定することを望み是とするようになってくるように思われるのです。
『人類最古の哲学』の中に こんな下りがあります。
神話は宗教の熱狂からは距離を保っているように思えます。たしかにそれは、私たちから見ればずいぶんと非合理な論理を好むように見えますが、その内部に深く入りこんでみれば、非合理の水際に限りなく接近しながら、そこに溺れてしまうことはありません。どこまでも思考の力が働いて、神話を理性(理性という言葉を拡大して使うことにしましょう)の領域につなぎとめています。この特徴は国家というものを持たなかった社会で特に顕著です。国家の誕生は人間の暮らしに、ひとつの解決不能な不条理を持ちこむことになりましたが、それが出現する以前の、まだ人々が自分たちのつくっている社会のかかえる不条理を思考の力によって解決できると考えていた時代には、人間は神話によって、不条理の本質を考えようとしていたのだと思います。(P.26)
私は、ジェームズ・フレイザーもレヴィ・ストロースも また 中沢さんのカイエソバージュ・シリーズ以外の神話について書かれた本も読んでいませんが、冒頭に挙げた例から 私も神話というものが 思考によって不条理の本質を考える手段であったと観じます。
しかし、死への恐怖があまりに大きかった/大きくなったからでしょうか、思考によって問題を乗り越えるという(動的安定の)アプローチよりも 国家のような組織をつくることで得られる固定した安定を、どうやら人類の多くは選んだようです。(*神話的思考にある限界が生じ その次のものを人類がつくり得なかった、という側面もあると考えています。神話的思考の限界を乗り越えるために人類が生みだしたのが 一神教の神であり、認知の拡大と思考によってうまれる(意識の/論理の)跳躍を 一神教の神という“人から分離させた存在”が担った、と言うことができるのかもしれません)
考えるというおこない自体が、
異質な領域をはしわたし うつりいき かわりつづける もの。
かんがえる ⇒ 間・換える 間・交える
死を受け容れらない意識は
考えることを受け容れることができないのかもしれません。
脳は 自由な環境が整っていれば 新たな創造にいどむようにできていて、その脳の働きを阻害する唯一のものが 恐怖である、という趣旨の文章を どこかで読んだ記憶があります。
恐怖によって固定を望む 私たちは、様々なモノコトを固定することで表面的な安心を得つつも 無意識に恐怖を連想し 様々な恐怖をつくりだしている、のかもしれません。また、動き変わり続けることが自然であるのに その理に反して固定する/固定されると 自動的に恐怖がうまれる、と言えるのかもしれません。
それは、恐怖から逃れるために作り出したものによって 恐怖に縛られている、という皮肉な状況です。何かから逃げ続ける限り 決してそれから逃れられない、ということなのでしょう。
人の中にある否定的な意識も、見方を変えれば、変わることを否定し 変わることを恐れ 現状に留まり固執する意識から生まれているように思えます。様々なネガティブな思いのなかに見え隠れする「私はわるくない」という意識は 思考停止の現状肯定(=現状固定)に他なりません。
*
固定したものは 一見 強靭に思えますが、
囲い込んでしまったものは 流れをせき止めます。
流れ出すことができず 流れ込むものがない…。
既存の人間集団に 澱みとも言える 内輪の論理や閉塞感や同質の匂いを観じるのは、当然なのでしょう。つねに変化し動いている宇宙の営みのなかで 固定したまま在るために、集団内の求心力を強めるか そのカタを維持するためのエネルギーをより多く集める(=メンバーや組織の拡大)ようになる。あるいは 閉鎖系のなかに循環や渦をつくり その流れを次第に速くしていく。現在の貨幣システムや スピリチュアルな力を発生させる仕組にも 同じものを観じます。
溜め込むこと 抱え込むこと 囲い込むこと 回し続けること…
いずれも 他者を支配する力と深く関わるそれら行ないの背後には 変化を否定する意識があるように思われるのです。
日本では 貯蓄は美徳 とされてきました。
日本国債の健全性の根拠を その貯蓄率の高さ とする方もいます。
国家の借財の出所が その国の国民であることは、「国民が国家を運営する」という理想からするなら 望ましいことです。しかし それが借財である限り お金は提供者へ戻されなければなりません。システムとしては当然のことですが、「流れ」に着目してみるならば、澱みのなかで循環しているだけのもの として映ります。
現在 税金として徴収されたり 国債として貸している国家の運営費が 自らが自発的に提供するカタチになれば、行政やそれに携わる人たちの意識も 変わってくるかもしれません。
過去が現在をつくり 現在が未来をつくる。
その流れからすれば、過去のものや先人のものを よりよく未来へ つなぎ流していくのが 理に適っている、と言えそうです。とするなら、同時代の勤労者が高齢者を支えている現在の年金システムは 合理的ではありません。また 同じ視点から 子どもが親の面倒をみるのを当然のこととした社会も 理に適っているようには見えません(*個人的にどうするかは 親子関係の問題であり 心の問題であり、社会が介入することではありません)。これまでのもの・先人のもの を 次へ伝え手渡していく流れのなかで、年老いても安心して暮らせる社会をつくれないものでしょうか。
死を恐れず
変わり 移り 流れいくことを 恐れず
動き続ける宇宙と同期して 動的平衡を保ちつつ 安心して生きていける社会は
どんなデザインなのでしょう。
どうデザインされうるのでしょう。
いま言えることは、人が死に恐怖することのない あらたな「しこう」が求められているということでしょうか。それは 意識や認識の領域に留まらず、生身の人間として恐怖を抱くことのない死の迎え方ができる社会をつくるという 現実社会における具体的で実践的な「しこう」でもあります。
そしてもうひとつ。
神という 私たちの祖先が自らと分離してつくったある意識領域のはたらきといとなみを 自らにつながるものとして 認識できるようになることも、必要でしょう。これはいつかまとめたいと思っているのですが、神という存在は 人間の神経回路を育むためのはたらきを担ってきたものであり、本来は動き変わるはたらきを 神という 当時の人間が理解しやすい物語の登場人物に担わせたため、(宇宙や意識の)流れがせき止められ 一種の澱みとなったのだと観じています。神が約束を守ると言われるのは 修正したり変更することができないから。それゆえに 神(とされたもの)は 人間を導き支配しつつ 人間が自らを超えていくことを望んでいた、相矛盾した存在として 私の眼には映ります。冒頭の神話において 死を否定すべきものと認識しているのは神なのです。旧約聖書の神が 自らを妬むものとして描くこともまた、この文脈において理解できます。変わることができない神は 変わることができる人間を妬んでいたのではないでしょうか。
かわらないものがあるとすれば
神というような存在も含めて あらゆる現象の あいだ
そこに ながれているもの
そこで ながれること
なのかもしれません
神がなんとかしてくれるのではなく、
神という回路を自らの意識に接続・統合して この世界をより俯瞰し より統べて 思考し続けることが、いま 私たちができる 小さいけれど最も強力なことのような気がします。
死を乗り越えた「ひと」は、
これまでの長い人類の営みの蓄積に
神というプロセスがつくった回路を得て、
みずから/おのづから 意識を拡大し 認識を新たにし 意識と物質を統べて思考し続ける“自己進化するマザーボード“のような存在になっていくのかもしれません。