いまは こんなにかなしくて
涙も枯れ果てて
もう二度と笑顔には なれそうもないけど…
先日、中島みゆきさんの「時代」を取り上げた番組が 放映されました。
3.11後の被災地訪問で 少なからぬ人たちが歌っているというその曲。
ある高校の音楽部のメンバーは 避難所の方から
「今まで瓦礫の山ばかり見てて涙も出なくて
でも あなたたちの歌を聞いて 震災後 初めて涙を流すことができた。
自分の中で思いが動いたのは あなたたちの歌のおかげだよ。ありがとう」
と伝えられたそうです。
また ある歌手の方は
「乾き切った砂漠に水をぱーっと入れたような感じで
染み入ったんでしょうね 人の心に。
ポロポロポロポロと 涙を流されている方が いっぱいいらっしゃいました」
と話されました。
この曲を自分のレパートリーとして歌っている方は
そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
という箇所を聴くと 涙が自然とぼろぼろ出るのだそうです。
「時代」は私の好きな歌の一つですが、今回の放映によって、堅く閉じたひとのこころを 自然に とかし ひらかせていく歌というものがあるのだと、強く観じたのでした。歌う人によって多少の差はあるかもしれませんが、基本的には誰が歌っても ひとのこころにふれる ある意味 普遍的なカタを持った歌 普遍的なカタを現わした歌、なのだと思います。まさに、番組の中で流れる 「時代」は「多くの人に歌い継がれる間に 祈りの曲となりました」というナレーションそのままに…。
いのり とは イの理 イの流
いのちの おのづからの流れ そのものに 添うコト/添う場
歌は 言葉とメロディに 歌う人の声が乗って この世に現わされます。
歌う人を問わず ひとのこころにひびくうた というのは、「ことばの はたらき」と「旋律の はたらき」が “いのり”になっている ということなのかもしれません。
素粒子と波動 そして そのオオモトのエネルギー場
それらが いのち に 合って/遇って いるのかもしれません
私には 「時代」という うた が
自然栽培の農作物 と 同じモノ(=同じ現象)に思えるのでした
ことば や 旋律 というカタ/デザインに そういうはたらきが できるのなら、
きっと 同じようなはたらきができる 社会のカタ/デザイン というものもあるはず…、と ちょっと我田引水的ではありますが そんな気持ちになり こころ新たにしたのでした。
1975年に発表された「時代」。
中島みゆきさんは ある時期から この曲をコンサートで歌わなくなったそうです。
そして21年ぶりにファンの前で歌ったのが 2010年(から2011年の年初にかけて)のツアーでのこと。2011年秋の「夜会」をはさみ、2012年の終わりから今年の年初にかけて行なわれたコンサートツアー「縁会」で、通常は前回のコンサートで歌った曲はセットリストに入れないのだけれど この曲だけは今年も歌いたい思います と前置きして始まったのが、「時代」でした。
【追記】
番組の中で 中島みゆきさんは「時代」という曲について 次のように語っていたのが、
印象に残っています。
「書いた時には
たぶん何も考えていなかったと思います。
誰にでもあることでしょうけれど
小さい子みたいにね
口が勝手に歌うにまかせた というような生まれ方をした曲なので(以下略)。」
「なんとも単純で漠然とした歌詞ですから
自分でも何の意味だろうって考えながら ずっと歌ってきました。
「こういう意味かな」と思い当たる時があったり
また違う時には「やっぱり違う意味かも」と思い直したりの 繰り返しです。」
「私が自分で歌うときには
いっそ もう何の意味も込めずに
「無」といった気持ちで歌うほうがいいのかもしれない と
最近 思うのですが
思ってはみても いざ歌うと 何かと思わくが入り込んでしまいまして
まだまだ ほど遠いなと反省するばかりです
この曲を私が「無」で歌える日は
はたして あるのか ないのか 自分でも楽しみです。」