草木染めは どこかくすんだ色
という観念が いつからか私の中にありました。
藍の生葉で染められた 透き通る水色を知っていながら、
おそらくは 目にする草木染めの多くが 色の中にくすみを宿していていたゆえに
それを例外として捉えていたのかもしれません。
そんな思い込みというか刷り込みが 気持ちよく覆されたのは 2年前のこと。
目の前の 透明感のある桃色が 桜で染められたことを受け入れるのに、少しだけ時間がかかりました。そして、眼を丸くして驚く私に その桜の色を見事に移した方は こうおっしゃったのです。
「平安時代の十二単などに使われている鮮やかな布は すべて天然の色ですよ。自然の色は 本当はとてもピュアなんです」
草木染めの色はくすんでいると みんなが思っているのは、染める側の技術と努力が足りないため、なのだと。
そういえば 今年の夏に見た 藍で染め分けられた 青のグラデーション。
一日の空の移り変わりを現わしたというそのインスタレーションの 精妙な色の変化に、しばらく身動きもせず 見入っていたことを思い出します。
そして 先日
『紫』という 「染司よしおか」のドキュメンタリー映画を観ながら
天然の色の鮮やかさと美しさを 改めて実感したのでした。
「天然の色には 化学染料にはない プラスαがある」
と 染め師の方が 映画の中でおっしゃいます。
以前どこかで 「天然染料で染めた色には影がある」 ということを 肯定的な意味で耳にしたことがあるのですが、今回この映画を観ながら その“影”とは 色の深みであり 色の中にある重なり を表した言葉だったのではないだろうかと感じました。精製され過ぎない塩に多様なミネラルが含まれ それが味の深みを出しているように、天然染料で染めたものは その色を構成する波長が多様なのかもしれません。そして 不思議なことには 色の深みがあるのと同時に 透明感があるのです。これもまた、絵の具を混ぜ合わせていくと色が濁ってくるのに対し、色の光を合わせていくと最後には白い光になるのと 同じ仕組みなのかもしれません。だからなのでしょうか。天然の鮮やかな色は どんな組み合わせでも どこか調和していて、隣り合う色を選びません(*その色の組み合わせが すべての人に似合うかどうかはまた別の話です)。
天然の色が最もきれいに染まるのは 絹 だと言われます。
色とりどりのシルクオーガンジーが画面に出てきた時は その透き通った輝く色に 言葉を失い ため息しかでませんでした。
自然の美しい色を“もの”に留め 身につけたい、それによって自然のエネルギーを得たい、ということが 人が色を使い始めた動機なのかもしれませんが、そのオーガンジーに現わされた色は 自然界で目にする鮮やかな色と 同じではありません。優れた染め師が関わることで 自然界の“具体的な色”が 抽象的な色へ、より純粋な色 よりエネルギーが現われる色へ 変わっているように感じるのです。
色のエネルギーということに関して 「染司よしおか」さんにもまつわる体験がひとつ思い出されます。今はもう閉じられてしまったあるお店に オーガニックコットン製の繊細なショールが置かれていました。商品には 生成りのものと 天然染めのものがあり、染めのものには よしおか工房のものと志村ふくみ工房のものがありました。同じ素材を使いながら(*もしかしたら染めの材料は違ったかもしれません) 布が持つ あるいは 布が発するエネルギーは、その二つの工房で まったく違っていたのです。
映画の中で 五代目の吉岡幸雄さんは、昔の色に 昔の人に 及ばない自らについて、ものに映される精神性について 語ります。
“もの”から時代や作り手の精神性が感じられることは、古美術に興味を持っていた時期の体験のなかで 知ってはいました。
事細かな時代区分はあやふやですが、個人的には 天平から平安の始めにかけての 快活な伸びやかさが とても好きです。また 桃山時代のものからは 奔放なほとばしるエネルギーが感じられます。ただ桃山の時代は 作家性とでも言うべき個人のエゴによってエネルギーが歪められてしまっているものも少なくないように思えるのですが、かつて目にした 当時焼かれたという織部釉の瓦の 自然かつ上品な佇まいの素晴らしさを越えるものに まだ出逢ったことがありません。
社会が安定し成熟したとされる江戸時代にはいると ものの生命力や魅力がなくなり つまらなくなってしまうのは、興味深いところです。限られた経験における 多分に個人的な印象が左右することですので 単なる私の好みの話なのかもしれませんが…。ただ 元王朝を移したとも言われる鎌倉時代のものが 凛とした力強い雰囲気を携えているように、天平・奈良 そして桃山時代といった 国際的な交流が盛んだった時代のものには なんとも言えない イノチのほとばしりを感じます。とはいえ 外国との交流が増えた明治以降のものに それらとの共通性を見出すのは難しく、それは 江戸と明治で 日本というものが 日本の精神性が 大きく変わった ということなのかもしれません。
余談になりますが、近代国家が崩壊したのち 民族主義的な国家に分裂していく傾向は、その“民族”なるものが極めて人為的な幻想であることも含め、一種の鎖国状態であり 過去に戻っていく“思考停止状態”のように 私の眼には映ります。交わりの中でこそ いのちが輝く ということを モノは雄弁に語ってくれているように思えるのです。
素材が持つ潜在性に 「作り手」と「時代」が作用して、“もの”のエネルギーや精神性が創られるのでしょうか。素材のイノチと 関わった人のイノチと 時代のイノチ によって、もののイノチが育まれるのでしょうか。
「染司よしおか」の染め師さんが 紅花の質が落ちた というようなことを映画の中でおっしゃいます。(数字的に正確ではないけれどイメージで言うなら)例えば 1枚の和紙を染めるのに昔は1キロでよかったのが いまは1.5キロ必要になっているような…、紅花の色素の量が減ってきている感じがする と。
野菜の栄養素も 昔に比べて減っているという話も耳にします。
大地が疲弊し 大地の力が弱くなっている のでしょうか。
無肥料・無農薬の自然栽培は、人が大地を汚してきた“過去の負債”を清算することと不可分な栽培法です。その自然栽培で育った紅花なら どうなのでしょう…。いつか その染め師さんに試していただきたくなりました。
紅花で紅く染められた和紙は クチナシで黄色く染められた和紙とともに 東大寺に納められます。それらの紙は 二月堂の修二会いわゆる「お水取り」で 二月堂の本尊の十一面観音に捧げる椿の花となるのです。
映画では、火のついた松明を 二月堂の舞台を走りながら欄干に沿わせて回す「お松明」の場面が映されていました。その「お松明」の、舞台上から映された 燃え上がり弾け散る炎を見ながら、なぜか私は 言い知れぬ切なさを覚えたのでした。
論理的な説明はできないのですが、火と水 更には空気や大地など… 本来はひとつであったものが様々なモノに分断された ということが 強く意識にのぼり、その 僧侶によって使い回されている火が 分断されたイノチの象徴のように思えたのです。
崇めることと封印は 裏表 なのかもしれません。
分断された いのち…。
しかし その分断された部分をいくら集めても ひとつという全体にはなりません。
だからこそ 私たちは、ひとつという全体に触れることが必要で、天然の色は そういうものの一つではないだろうか とも思うのです。
天然染料は 大地に育つ植物の賜物。
いろは
だいちのいのちも
うつしているのかもしれません
大地を
植物を
地球を
宇宙を
いのち というものを
ころも を とおして かんじる…
ひとつの
触媒として
媒体として の ころも
イギリスで行われた吉岡さんの講演会への参加者が 「よしおか」の色を見て
「色が いきている」
と言いました。
もしかしたら
色の豊かさ 物の豊かさとは
それを構成する いのち という“ひとつ(らなり)のエネルギー”の多様さに由来するのかもしれません。