「もう壁は立てない
というのが
これからの基本になると思います」
先日放映された番組の中で ある音楽家が、音楽などの芸術を これからどういう形でお金に結びつけていくか について語っていました。
これまでは 音楽や絵や映画の周りに壁を立てて それに触れることの対価としてお金を求める図式だったけれど、インターネットが普及し 特に音楽は無料で聴ける時代になった今となっては 壁をつくっても無駄であり、「どうぞ自由に聴いてください」ということが前提になるのではないか。インターネット空間の中で 従来通りに壁を立てている人もいるけれど 自分はそうではなく、可能な限り良い音でコンサートをネット配信することも含めて どんどん聴いてもらう。その上で 演奏や音楽を楽しんだり いいと思った人が お金を払う、という 「おひねり」のようなカタチになっていくのではないだろうか とおっしゃっていたのが印象に残っています。
おひねり的なお金のやりとりが 既にいろいろなところで散発的に行われているのは知っていました。昨年から使っている暦の一つも 支払う金額をそれぞれが決めて振り込むカタチをとっています。しかしこれまでは そういうあり方が ひとつのオルタナティブではありえても 未来的なものに思えなかったのですが、なぜか今回は 通貨というもののあり方を変える可能性として 私の中で改めて認識されたのでした。
たぶんそれは、
交換やギブ・アンド・テイクではなく
また いわゆる贈与とも違う
相手への敬意や感謝であったり 相手を育むものであったり といった、これまでには存在しなかった「ひととおかねの関係」の萌芽を 自分なりに そこに見出すことができたからなのだと思います。まさに 文字通りの “幣としての紙幣” の可能性を、その方の言葉のうちに また 現在(いま)という「とき」に感じ取ることができたからなのかもしれません。
ですから お金のやり取りがすべて「おひねり」のように お金を出す側に委ねられるのがいいとも そうなるとも思ってはいません。お金のあらたな可能性は 金額の多少やその決定権ではなく お金というものをどう捉えるか という点にあると考えるからです。
そういった 通貨の意味やはたらきを新たにするような試みとして ずっとご紹介したかったものに、韓国はソウルの「敷居のない食堂」があります。今春にその存在を知ってから 文章にしようと思い続けながらも なかなか手が動かなかったのですが、ようやく「とき」を得たようです(笑)。既にいろいろなところで紹介されているので ご存知の方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。現地を訪ねたことのない私が以下に記す事柄は そんな既出の情報に拠ったものです。
「敷居のない食堂」は 農薬や化学肥料を使わない有機栽培の食材で料理をつくり 食事の支払いは 食べた人がその金額を決めるカタチをとっています。日本では「おにぎり食べたい」と書き残して孤独死した方がいた痛ましい事件が起こりましたが、ここでは 生活に困っている人は払えるだけのお金を出せばいい つまり本当に困っていれば払わなくてもいいわけですから、地域から餓死者を出す可能性は限りなくゼロに近づきます。
食堂でのルールは 食べられるだけの量を器に盛り 絶対に残飯を出さないこと、食べ終わった食器にスンニョン(*ご飯のお焦げにおお湯を加えてお茶のようにしたもの とのこと)を入れ 大根の漬け物を使って食器をすすぎ それを飲み干すこと(*まるで禅僧の食事のようですね)。昼食はビビンバだけのメニューで ご飯に乗せる食材が日替わりになっているそうです。また 以前目にしたサイトでは、食堂内には 場所代や材料費などの運営の経費が公開されていて 支払う金額を決めるひとつの目安となっている、と書かれてあったように記憶しています。
食堂の実際については知りませんが、
食事そのものに対してお金を出すひともいるでしょうし
食堂の存在意義やあり方に共感してお金を出すひともいるでしょう。
一物多価。
ひとがお金に意味を与え はたらきを決めるのです。
その結果、支払う という行為が 多様な意味と価値を持ち、お金というものが 多様に 豊かになっていく…。そんな可能性が この取り組みには感じられます。
*
ひとがお金に意味を与え そのはたらきを決める、ということを考えたとき 思い浮かぶもののひとつに 税金 があります。
先日会った友人が、「望む人には 税金の使い方を決められるような制度ができないだろうか」とつぶやきました。
自分が払った税金が軍事費に使われるのは嫌なので 税金の使い道について 国民が投票できるようにしたい、というような主張は以前からありました。そして冒頭の「おひねり」と同様に、そのアイデアに対して 長らく私の意識は何の反応も示さなかったのに、彼女からそのことを聞いたとき ひとつの可能性を感じたのです。それはたぶん 新たな経済に向けて「橋渡しとしてどういうカタチがあるのか」を考えていた という彼女の言葉だったからなのかもしれません。
株式会社の株主は 経営に対してもの申すことができます。
そのシステムがベストがどうかは別にしても 税金を納めている人がそのお金の使い道(=経営)にもの申すことは ありうる選択肢のひとつとして考えられます。
そのために議員がいるのです とおっしゃる方がいるかもしれません。
確かにそうとも言えますし、議員を社外重役と捉えれば 納税者は株主として 役員に委任したい人は委任し 議決権を行使したい人は行使してもよいとも言えます。
その場合 株式会社と公的な組織は性格が異なりますし、出資額に拠らない平等な議決権を採用している会社もあると聞きますから、出資額(=納税額)に関わらず ひとり一票(*議会における議員の一票とは別のものとして) というのが、ひととお金の新たな関係を創造する上でも 好ましいと思われます。
行政の多岐にわたる業務を 素人が理解できるはずもない、かもしれません。
が、できるかもしれません。
行政が その周りに立てている壁を 取り除くならば…。
まずは 市町村レベルから、いきなり 投票結果を財政に反映しなくても 助走期間の試行として 取り組むことは可能だと思うのです。
行政側が壁を立てることをやめて 積極的に“開帳”し(*そのためには市民側もまた 責める姿勢を手放す必要があります)、社会のためにお金を出し合うプロセスを その社会を構成する人たちと分かち合い共有することで、社会におけるお金の役割やはたらきが 変わっていくような可能性を感じます。そして 国民や市民を愚民と思って自分たちがやらなければと信じている政策立案を担っている方々と 愚民と思われ官僚や役人に対して良くない印象を持っている方々が 実際に出逢い 同じ場に身を置くことで、何かが変わり 始まっていくような気もするのです。
これは 財政の無駄を省くための いわゆる「仕分け」とは 拠って立つところが全く異なります。お金の支出を抑えるのではなく、お金を社会のなかでよりよく生かし働かせていくために 共に考えることが、その目的だからです。その目的においては “税金の使い方への投票”もまた ひとつのツールでしかありません。
*
“税金の使い道への投票”のことを話してくれた友人は、「暫定善」という思考の枠組みを 私に示してくれた人でもあります。ベストではないかもしれない 後から振り返れば間違っているかもしれない、けれど いまやれる望ましいと判断したことを 私たちは “暫定善”として受け容れて進んでいくしかないのではないか と。
完璧を求めれば 立ち止まるしかありません。
うまくいかなかったとしても そこで可能な限り学ぶことができれば それは失敗ではなく 実り多き経験となります。
おかねは もらうもの ではなく
わたすもの
いろいろなところで
すこしずつでも
そうなっていけば
いいですね
通貨は 通価であり通過。
ひとの間を通過する価値でありエネルギー。
それをどういうものにするのかは ひとの意識に委ねられている と言えるのではないでしょうか。
【この記事に関連した過去記事】
経世済民:与える流れ(その壱)
経世済民:与える流れ(その弐)