今月の第一週目の週末 2日間にわたって幕張で行われた「NO NUKES 2012」の二日目に 行ってきました。
このライブ・フェスティバルのメッセージである「脱原発」は、私が志向する「地球を破壊することなく運営する社会」の方向性と 大きく重なります。でも、ここ何年もほとんど音楽を聴かない生活を送り また 人が集まることで生まれる一種の集合無意識の場と それに無自覚に巻き込まれていく人のなかに身を置くことを好まない私は、前日まで 行くかどうか分からないままでした。積極的に行きたいわけでも 積極的に行きたくないわけでもなく、結局は チケットを買ってあったということと その事実からなんとなく「行く流れ」を感じとり 幕張へと向かったのでした。
演奏が始まる前に 様々な方から寄せられた脱原発に向けたメッセージ・ビデオが流れます。その中の1つで、ある方が「分散型社会へ」ということを話されていました。
分散化型社会へ という言葉は、これまで幾度となく耳にし 目にしていて その度に 好ましいビジョンとして受け取っていたのですが、この日はなぜか 引っかかりを感じたのでした。
「一極集中の型」を分散しても 問題の解決にはならないのではないか、と。
権力を分散しても その中心にある「権力」というカタが変わらなければ、一極集中のカタのコピーをばらまくだけです。中心がひとつであるよりも 小さな円の中心がたくさんある方がまだまし とも思えますが、何かに依らしむ体制は 変わりません。
分散型社会へ と提言された方は、人々がエネルギーを取り戻すことによって 地域に雇用を生む とおっしゃいました。それも 次のステップとしては 1つの好ましい選択肢だと思います。しかし 「個々人の自立」を第一に そこを出発点に考えた場合、エネルギーをどこかから買うというカタにおいては 同じシステムとも言えます。もちろん 供給者が現在のような電力会社の独占状態から 選択肢が増え 身近なところから購入できるようになるのは 非常に望ましいことです。しかし 思考がそこで止まってしまうと、すべての住まいが 何ものにもつながることなく 自立/自律したもへ という より先の望ましいビジョンへ進むことが難しくなります。いったん 地域のエネルギービジネスで生活の糧を得た人が それを手放すのは容易なことではないと思うからです。
産業にしろ 権力にしろ システムにしろ、今ある大きなものを分散する という発想では、これからの時代のひな形にはならないのではないでしょうか。
システムの「中心」を より個々人に近づける、のではなく、個々人がそれぞれ中心である あるいは 中心はない というところから ものごとを発想していく必要があると思うのです。個人が自立/自律できるシステム というものをまず最初に考え、それらをより合理的に機能させることのできるシステムが 次に社会の中で構築されるのが ものごとの筋ではないでしょうか。
今年の3月に あるベンチャー・キャピタリストの方の話を聞く機会があったのですが、その方は 2015年には 演算機器の延長線上に開発されてきた現在のコンピュータは 終わりを迎えるでしょう とおっしゃっていました。いくら演算機器を改良・改善しても これからのコンピュータに求められているコミュニケーション機能は担えない、自動車をいくら改良しても飛行機はできないように 根本的な発想の転換が必要なのです、と。
今のコンピュータ・ネットワークも ホストコンピューターに情報が集まるシステムになっています。しかしセキュリティやプライバシーを考慮すれば 個々人が発信者でありサーバーであることが望ましいわけです。しかし、その もともとインターネットが志向していたはずのピア・トゥ・ピアのシステムを担うには 演算機器に基づいてつくられている現在のコンピュータでは無理がある というのがその方の主張でした。そして実際にその方は ベンチャー事業として 次なるコンピュータの開発に取り組んでいらっしゃると言います。
その次なるフェーズのコンピュータがどういうものなのか その詳細はわかりませんでしたが、話を聞く限り それは より人の意識のはたらきに近くなっていくようです。その方が目指すのは 使い勝手のよい商品でありサービス。より人に寄り添った 人との親和性の高いハードが生まれることで 人の意識が刺激され 更なるハードの創造が進み それがまた人の意識や創造性を後押しし… というような相互作用による共進化がうまれるような気がしています。
そういう ハードとソフトの共進化が、上に書いたような 集中ー分散という従来型の概念の枠組み(*中心を持つ構造)から人の意識を解放させ 個人の自律/自立をベースとした社会の枠組みを創造してゆく 機動力になるのではとも感じています。
@「NO NUKES」関連の文章は こちらにもあります。