昨日の記事に引き続き、
同じ本からの文章を 忘備録として引用しておきます。
*
坐禅でもまた人生でも、たくさんの困難、問題に出会います。問題があるとき、どうして自分にこういう問題が起きたのか、それを自分の力で見つけることができるかどうかを考えてください。あなたたちはたいてい、最善のやり方でなるべく早く困難を解決しようとします。自分でそれを学ぼうとするよりは、なぜ自分に問題が起きているのか誰かに尋ねます。そういうアプローチは普通の生活に関してはうまくいくかもしれませんが、禅を学びたいのならば、役には立ちません。
誰かから何かを聞き、それがわかったと思ったとたんに、あなたはそれに固執し、あなたらしさが充分に働く可能性を失ってしまいます。何かを探し求めているときには、暗闇の中で枕を手探りしているかのように、あなたの本性は全面的に働いています。どこに枕があるかがわかったら、もはや心は全面的には働きません。心は限られた感覚で作動します。枕がどこにあるのかわからないで枕を探しているときには、あなたの心はあらゆるものに対してオープンな状態になっています。このように、あなたはあらゆるものに対してより繊細な態度をもつようになります。そしてものをあるがままの状態で(things as it is)見るようになります。
何かを学びたいのなら、答えが何であるかを知らないほうがましです。(略)
あなたたちは自由を求めているのですから、いろいろなやり方を試してみなさい。(略)時間を無駄にしたように見えるかもしれませんが、それでもそういう態度は大切です。そうやって見つけようという努力を続けていれば、ものごとを理解する力がもっと強くなるでしょう。何をするにしても、時間を無駄にすることにはなりません。
限定された考えや限定的な目的をもって何かをするとき、あなたの得るものは何か具体的なものです。それはあなたの内的な本性を覆い隠してしまいます。ですからそれは、何を学ぶかという問題ではなく、ものごとをあるがままに見る、あるいはものごとをあるがままの状態で受け入れるという問題なのです。
(略)
われわれ一人一人はそれぞれが他の人とは違っています。ですから状況に応じて、やり方を変えなければなりません。一つのものにしがみついていることはできないのです。唯一のやるべきことは新しい状況下において、行動するための適切なやり方を発見することです。
(略)
私が永平寺で師匠の補佐をしているとき、彼は私に何も教えてくれませんでした。しかし、私が間違いを犯したときには、私を叱りました。通常、戸を開けるときには右側の戸を開けるのですが、私がそのようにして開けると、叱られました。「そんなふうに開けるな! そっち側じゃない!」 それで次の朝は、もう一方の側を開けました。するとまた叱られました。私はどうすればいいのか、わからなくなってしまいました。後になって、右側の戸を開けたあの日は師匠の客人が右側にいたことを知りました。ですから、そのときはもう一方の側の戸を開けるべきだったのです。戸を開ける前に、私は客人がどちら側にいるかを注意して見つけるべきだったのです。(略)
師匠はわれわれには何も教えてくれませんでした。(略)
決まりごとや偏見なしに、ものごとをもっとよく理解しようと努力する、それが「無私」(selflessness)ということです。何かが「決まり」であると言いますが、決まりはもうすでに自分勝手な考えなのです。実際には決まりなどありません。ですから「これが決まりだ」と言うとき、他者に何かを、決まりを、強いているのです。
あまり時間のない場合や、あるいは親切なやり方でもっと親身に人を助けることができない場合に限って決まりが必要になります。「これが決まりだから、そうするべきだ」と言うことは簡単です。しかし実は、それはわれわれのやり方ではありません。(略)
私は、あなた方をあまり手助けできないことを申し訳なく思っています。しかし真の禅を学ぶやり方は言葉によるものではありません。ただ自分を開いて、あらゆるものを手放すのです。何が起ころうとも、それが良いとか悪いとか思っても、自分が見出したものを綿密に学びそして理解しなさい。これが根本にあるべき態度なのです。上手、下手にかかわらず絵を描く子供のように、これといった理由なしに何かをすることがあるでしょう。それがあなたにとって難しいのなら、それは実はあなたがまだ坐禅をする準備ができていないのです。
実は任せる対象などないのですが、それが任せるということが意味することです。特定の決まりや理解に固執して自分自身を失うことなく、刻一刻自らを見出し続けなさい。それがあなたたちのなすべき唯一のことなのです。
<P.162~P.170>
*
「法律は最低の道徳」と言われることがあります。なんとなく納得したような気持ちになったりもするのですが、どこか違和感がありました。そして今回この本の中で、「決まりはもうすでに自分勝手な考え」であり 「あまり時間のない場合や、あるいは親切なやり方でもっと親身に人を助けることができない場合に限って決まりが必要」になる、という文章を目にしたとき、「そうそう!まさにそういうこと!!」と深く腑に落ちたのです。
「決まり」があることで ものごとを短時間で処理することができ ある限られた範囲の中においてはとても便利なものです。そして 社会を営む上で「決まり」は ある程度 必要なものだと思います。でも、その「決まり」というものの本質や出自を忘れてしまうと 従である「決まり」が主であるかのように人々が扱い始め、本来主であるはずの人の本性や自由や生命が 「決まり」の従となり その可能性が潰えてしまいます。その例として思い出すのは、かつて「死刑を廃止してしまうと無期懲役の人が増え 収容するコストがかかるから、死刑制度は必要」と言った 公務員である知人のことです。
また ある社長さんは、規則をまったく作らずに会社を運営していたところ 社員の方から規則を作って欲しいと言ってきた、と話してくれました。決まりに従うことに慣れてしまうと 自由であることに不安を感じるのかもしれません。その社長さんは まったく仕事をしなくていい社員を雇っていて(*とは言え、何らかの表現活動をされている方たちでしたが)、それはフィランソロピー活動であると同時に 「人は自由に耐えられるのか」という一種の実験のような側面もあると おっしゃっていたように記憶しています。お話を伺ったのは もう20年以上前のこと。いま その会社はどうなっているでしょうか。
「決まり」は 様々なところにあります。
概念や言葉も 一種の 決まりです。
「型」と言った方が 良いかもしれません。
「型」はあらゆるところに見られます。
暗闇の中で枕を手探りするように、人の自発性や自立性や自由や可能性を潰さない「型」 あるいは それらを育み伸ばすような「型」を あるいは 型が必要のない社会のあり方を 模索してみたいと思うのです。