アメリカの絵本作家であり 自然な庭づくりのガーデナーとして有名な、ターシャ・テューダーさん。2008年に亡くなられましたが、彼女の遺言に従って 葬儀はせず 墓をつくらず、荼毘に付された遺灰は 彼女の庭に還されたことを、彼女についてのテレビ番組で知りました。
ずっと (個人的には)従来の記念碑的な墓は要らない と考えている私は、墓地に代わって 遺灰を大地に返し自然を育む「還っていく森」のような場所ができたら…と思っていたのですが、その番組によって、木々だけの森ではなく 四季折々の草花が息づく「庭(にわ/には)」のような場所が より望ましいイメージとして浮かび上がってきました。
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人の理解を超えた「無限」と断絶することなく その営みを続けている“自然”は、人が その生を終え 宇宙の全体性とも言える“ひとつらなり”のなかへ還っていく場所として 最もふさわしいように 私には思えるのです。
空間のなかに中間的な領域を創造しようという人間の夢が、現実の世界のなかに物質化されたとき、庭園というものができあがる。この点では、庭園は詩によく似ている。詩はみんなが日常的に使っている言語を使って、自分が現実のなかに出てくる直前の、宇宙の全体性とつながりをもっていたときの言語の状態というものを、つくりだそうとしているからだ。
(略)
日本の庭園では、空間を空間として三次元に広げていくことよりも、空間そのものが立ち上がってくる垂直性をもった現象を中心的な主題としている。庭造りにたずさわっていた「山水[さんずい]河原者」と呼ばれる人々は、庭を「造る」のではなく「立てる」と称し、場所に大きな石を立てることから仕事をはじめたのである。現実のなかに指標として石を打ち込み、その特異点から大地の力が放出され、その力が空間に姿を変えて庭園をつくりなしていくようにして、夢の空間を立ち上がらせていったのである。
(略)
二十一世紀には、非人格的な存在である「モノ」たちと人間がどのような関係を結んでいけるのかが、とても大きな意味をもってくるだろう。(略)そのような知性を養う場所として、庭園が大きな意味をもってくるにちがいない。庭園こそ、人間が非人格的なモノとのあいだに同盟関係、契約関係を結んで、人間にとってもモノにとっても、それぞれのプログラムを実現できるような関係性をつくろうとしてきた場所だからだ。今日までの庭園においても、植物や動物などのモノは庭園の主要な要素ではあったが、今後はさらに大きな意味をもってくるようになる。これまでは庭園造りの職人たちがなかば無意識に、なかば伝承的に体得した直感によっておこなっていたことを、二十一世紀の世界に生まれるであろう新しい職人的知性は、これを意識化して取り出すことができなければならない。
(中沢新一著『ミクロコスモスⅡー耳のための、小さな革命ー』P.86~P.93)
その「無限のにわ」の場を立ち上がらせるのは、苔むすことはあってもほとんど変化することのない石 ではなく、刻々と成長し朽ちて次代へと生命が受け継がれていく樹。一本でも 二本でも 何本でも その場にふさわしい樹を植えて、個と全体性 生と死 顕在と潜在 デジタルとアナログ…の ひとつらなりを体感し体得できるような場を、たちあらわしていくのです。
ターシャさんが「庭づくりには最低でも12年はかかる」と言ったように 時間をかけて…。
たぶん「庭(にわ/には)」が完成することはないでしょう。
「無限」が無限であるように…。
季節の移り変わり
命の移り変わり
生物と非生物のかかわりと調和
はぐくむということ
いきるということ
てわたすということ
うけつぐということ
ひとがより「楽」に生きるための知恵や知性を 養い育む場として…
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そんな「無限のにわ」は、できれば 自然豊かな場所ではなく、荒廃したところにつくりたい。明治神宮が 荒れ野につくられたように。ターシャさんが 放置されていたじゃがいも畑を すばらしい草原にしたように。
例えば 天災や人災によって破壊された土地が うつくしい「にわ」となったなら、きっと後から生まれてくる人たちは 人という存在の可能性を 実感を持って確信することができると思うのです。
ターシャさんが バーモンド州に移り住んで あの「ターシャの庭」をつくり始めたのは、彼女が57歳のとき。それだけでも 人の無限の可能性を信じることができます。
【注】RADICAL < Late Latin 「radicalis」(=of or having roots)
< Latin「radix」(=root)
< PIE root「wrad-」(=twig, root)
庭=こちらのサイトによれば、
「神事・狩猟・農事などを行う場所や、波の平らな海面などもさし、
古くは何かを行うための平らな場所をさしていた。」とのこと