Earth Design Project

ひとりひとりから始まる あらたな ヒト/HITO の ものかたり
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たようせい

先日アップした記事に「多様な要素があることや 刺激が多いことが 一概に良いとは言えませんが…。」と書きました。そこでは「多様な要素があること」と「刺激が多いこと」を 同列に扱ってしまいましたが、「要素」と「刺激」は まったく別の概念です。

現代社会や都市環境は 情報があふれ 刺激が多い、ということは おそらく誰もが同意されることと思われます。10年前 自分の内面に向き合わざるを得なくなった私が 一番最初にしたことは、ちまたにあふれる情報の遮断でした。テレビ、雑誌、音楽…といった人工的なものの一切を 当時の私(の身体)は まったく受け付けなかったのです。そして 自然のなかにいて 自然と触れあうことで、自分のなかの何かが回復していっていることを観じていました。

それは何を意味しているのでしょうか。

大橋力さんの著書『音と文明 音の環境学ことはじめ』のなかに そのヒントがありました。

ほとんどが人工のものによる音で構成されている「街の音」は (音が響く)時間や空間が小さく区切られた“断片”の寄せ集めであり、その断片の音も周波数帯が狭く スペクトル構造が単純で 時間的な変化もほとんどありません。狭い時空の範囲に 離散的な音が集まっているため、「刺激が多い」(正しくは「刺激が強い」)と感じられるのだと思います。

一方「自然の音」は 時間的にも空間的にも連続していて さまざまなゆらぎを含み ゆっくりと移り変わっていきます。それらは 人間以外のものが発する音が優勢なので 音のスペクトルの幅はかなり広くなります。その「多様な要素」に支えられた 懐の深い場に、私たちはやすらぎと静けさを感じるのでしょう。しかし その「静けさ」は 数値的に静かである ということと同義ではないようです。

日本の騒音基準には 最高で「70デシベル以下」という基準があります。
これは 幹線道路に近接する場所についての基準ですから かなりうるさい音と言うことができます。ところが それと同じ数値を出す場所で 静けさを感じる、とこの本には書かれているのです。

モンスーン・アジアの水田農耕を営む村落環境や、多雨性の熱帯地域で今なお狩猟採集民が棲む森林などに私たち自身が騒音計を持ち込んで実際に調べてみたところ、(略)騒音計の目盛りは、静かな村里の中で50dBA[*ブログ筆者注:デシベル。dBとも表記する]あたりを、また爽快な森のしじまの中で60dBAあたりをベースラインに指し続けるばかりか、ちょっとした生命の営みや生態系のゆらぎによって、その目盛は70dBAの上にまで簡単にはねあがる。それにもかかわらず、感覚感性的には静寂感が保たれ、快適感はゆるぎもしない。
(P.16~P.17)


さらに、この本に載っている「街の音のスペクトル」と「森の音のスペクトル」の図(P.66~P.67)を見ると、「街の音」が20kHzまでの間に収まるのに対し、「つくばの屋敷林の音」や「バリ島の村里の音」は50kHz 「ジャワ島の熱帯雨林の音」や「モンゴル草原の小川のせせらぎ」は130kHzまで そのレンジを伸ばしています。

こちらのページの「3.デカルト的射程の限界を暴く」のところに、スペクトルの図が紹介されていますので、ご参照下さい。)

ヒトの可聴域はおよそ20Hzから20kHzと言われていますから、人に聴こえるのは「街の音」の範囲まで ということになるのですが、その可聴域を超えた高周波の音が 人にとって大切な働きをしているようなのです。
(この点については 上でリンクした対談ページの「5.聴こえない音を聴く脳を見る」を ご参照ください。)

この本には 高周波が豊かに含まれるオルゴールも紹介されていて、その音が「ジャワ島の熱帯雨林の環境音」や「モンゴル草原の小川のせせらぎ」と同じ130kHzまでも広がる幅広いレンジの中で 低周波から高周波にかけてゆるやかに揺らぎながらフェイドアウトしていく ひとつらなりの山脈のようなスペクトルを描いているのを見て、一度その音を感じてみたくなりました。
調べてみると 実際にそのオルゴールの音を体験できる場所があることがわかり、今年の3月初旬に訪ねてきました。

その率直な感想は…
自然の音の方がいい(だろう) というものでした。

ジャワ島の熱帯雨林を訪ねたことはありませんが、バリ島の山麓や スマトラ島の山の中 あるいは屋久島や日本の山々などの音と比べても オルゴールの音は“刺激が強く”“不自然”だったのです。

それが何に由来するのか 実際のところはわかりません。【*補記】

ただ この体験が教えてくれるのは、それがどれだけ細やかに行なわれた測定であり 結果として好ましいことがらとの因果関係が見受けられたとしても その測定や数値から現実を規定することは とてもあやうい、ということです。

このことは 本の著者である大橋力さんもわかっておいでで、持続したひとつの音の中のミクロな時間領域で変容する音楽の信号構造を可視化するために開発した「MESスペクトル・アレイ」について 次にように書いておられます。(*既出の音のスペクトルは この方法で可視化されたものです)

 かつて五線譜が音楽のマクロな構造を視覚パターンとして捉えたように、私たちのMEスペクトル・アレイは音楽のミクロな構造を視覚像に描き出した。では、このスペクトル・アレイは、これまで五線譜が果たしてきたような「音楽と等価の視覚像」あるいはそれに近い「高度に規範的な音楽の鋳型」として機能でき、そのように機能させるべきものだろうか。このような性格の問題についてポラニーは、「手放しの明晰さが、複雑な事象についての私たちの理解をいかほど破壊できるかがわかる。包括的存在について諸細目をこまかく調べるうちにその意味がぬぐいさられ、その存在についての私たちの概念は破壊されてしまう」という。(略)

 音の環境学からは、さらに次の指摘を重ねておきたい。そもそも、私たちがMEスペクトル・アレイ法で描いた尺八やガムランの音の像は、特にそのミクロな領域で変容する構造は、音楽の要素であると同時に、決して再現することのない天然の生物現象の範疇にも属する。それは、例えば獅子が鹿を狩る時のある一回の追跡経験の軌跡にたとえることができる。その一回の分析記録は、経験の蓄積やのちのちの教訓としてはたしかに貴い効用をもたらし、とりわけ洞察の資源として絶大な価値を導くことだろう。しかし、そうであるからといって、果たしてそれが「狩りの鋳型」としてポジティブな効用を導きうるだろうか。(略)狩りの行動の諸細目とは、基本的には生物コードに支配されつつ、具体的には実行される時空系で偶然と必然に揺り動かされながら形づくられる一回性の履歴に他ならないのだからーー。

 それと同じように、人類本来の音楽のミクロな構造も、生物コードと文化コードに基本的プロトコルを支配されつつ、その演奏の場の情報環境を含む多大な偶然の影響をおり込みながら築かれている。その一瞬の姿を切り出したMEスペクトル・アレイは、己自身が創り賞味しつつある音について、そのままでは不可視の断面を顕したものにすぎない。MEスペクトル・アレイ法の有効性は、まず、この複雑なものを瞬時に彫塑し読み解いている非言語脳の活性を啓示し、言語世界一辺倒となった近代文明が自らに施した、眼のうつばりを除くところにある。あわせて音と人とのかかわりの見直し新たな叡智と洞察を築く端緒を開き、その歩みや稔りを評価する役割においてこそ、期待されるべきものだろう。(P.374~P.375)

[*著者注:文中にある「言語世界」の「言語」とは 狭義の言語(=通常言われる言語)ではなく、記号化されるもの・意識化されるもの というより広い概念として使われています。]

「人が知覚できるのは 一部である」という 当たり前のことをこころに留めるとき、「感知・知覚・認知できない多様さを いかに身近な環境に確保し維持できるか」ということの重要性がひときわ大きくなってきます。

生物の多様性 自然の多様性…

そういった多様性は、ヒト/人という存在の本来の能力を開花させ 可能性を育み担保するもののように思えます。それらは 自覚されえないシン-putareを支えてくれるものであり、その領域において 私たちとつながっているものでもあります。

「環境」というものを、自分自身の延長・身体の一部(ひいては脳の延長であり一部) として捉える視点が いま 求められているのではないでしょうか。また それは、未知のもの・未完のものが 自らのうちに在ることを知り それとともにいきる、ということでもあるのだと思います。








【*補記】(2014/06/18(水))

高周波オルゴールの音と豊かな自然の音の違いが 何に由来するのかわからない、と書きましたが、一つはっきりしていることは その音を構成している要素の数です。一種類の金属が弾かれた音と さまざまな自然が織り成す音。たとえ周波数の幅が同じであっても そこに含まれるものや響きや体感・観覚は 違っていて当然ですね。




【補記その2】(2014/07/02(水))

上記の補記に関連して。
ライアル・ワトソンさんの著書『エレファントム 象はなぜ遠い記憶を語るのか』のなかに 次のような記述があります。

 バーニー・クラウスは著書『野生の聖域へ into a wild sanctuary』の中で、音の棲み分けという考えを持ち出している。それぞれの種は、音響的“なわばり”を持っている。つまり意志をうまく伝達するために、他の種に使われていない周波数を自分のものにしている。
 (略)
 生態が安定したところでは、生物音が切れ目なく全体を満たしている。あらゆる周波数のスペースがきちんと埋められているので、音が一つの完全な状態を保っているのだ。それぞれの地域で、生物たちは互いに穴埋めをするように音を出している。そして象がいなくなった今、象の占めていた場所には音の穴が開いている。
 これは重要な発想だと思う。自然を全体として捉え、その鼓動を聴くことの大切さを教えてくれる。一部の文化において、ある種の音が自然に有効な働きかけをすると考えられているのもうなずけるだろう。彼らは音によって世界の裂け目を癒し、森の隠れた生命を呼び起こすことができると考えている。(P.330〜P.331)

象の占めていた場所に開いた穴を埋めるように 人が音によってはたらきかけ それが有効に働いたとしても、たぶん… いえ きっとそれは 象がいたときの全体性とは似て非なるものになるのだと思います。高周波オルゴールが 同じ周波数の幅を持つ自然環境とは 全く異なる音を奏で、それは後者に勝ることはないように。

人(のはたらき)だけで 世界の全体性をつくり保つことはできません

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