今日 家人から送られてきたメールで、
台湾で学生が立法院を占拠していることを知りました。
IWJの報道によれば、強制排除を経た今も 占拠は続いているようです。
争点となっているサービス貿易協定の問題点や占拠という方法に対する検討は いまの私にはできませんが、「民意を反映した審議をしてほしい」という意志はおおいに理解できます。
まさに 私はいま 新国立競技場の建設に対して、そのような意志を抱き続けているのです。
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新国立競技場の問題に気づいたのは、建築家の槇文彦さんが2013年8月15日発売の『JIA MAGAZINE 295』に寄稿した「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」を受けてイベントが開かれることを 家人から知らされたときでした。
ここ10年は媒体を問わず マスメディアの情報にはあまり触れていないので、私は その時まで このようなことが進行していることを知らずにいました。
仮に 報道に接していたとしても 最終案に対する疑問は浮かべど 槇さんが指摘されているような問題には 気づけなかったと思います。今回のコンペ及びそれによって選ばれた最優秀案についての問題点は 先述の論文で槇さんがわかりやすくまとめて下さっていますので、是非ご一読ください。
10月11日に行なわれたイベントには 定員を大幅に越える参加者が訪れ、数カ所のモニター会場が設けられました。その後 メディアでの報道や市民の動きなどが活発化していき この問題への人々の関心の高まりが感じられます。が、それらの問いかけに対して 問いかけられた側からの応答は得られていません。
昨日アップしたブログの記事に基づけば 問いが適切ではないから とも言えるのかもしれませんが、今回のコンペのサイトには 次のようにはっきりと書かれているのです。
私たちは、
新しい国立競技場のデザイン・コンクールの実施を世界に向けて発表した。
そのプロセスには、市民誰もが参加できるようにしたい。
専門家と一緒に、ほんとに、みんなでつくりあげていく。
「建物」ではなく「コミュニケーション」。
そう。まるで、日本中を巻き込む「祝祭」のように。
見直しを求めている建築家の方たちの反応を見る限り 専門家ともコミュニケーションが行なわれていなかったと判断せざるを得ませんし、市民に対しては 疑いのないところです。
自分が住む土地の風景が変わるだけでも わが身の延長として 人は敏感になります。そして 日常的に接する土地でなくとも 大切にしたい場所があります。
新国立競技場が 湾岸などの別の場所に建てられるものであったとしても問題はありますが、今回 多くの人がこのことに関心を持つのは やはり神宮外苑という土地によるものが大きいのではないでしょうか。
私は 今回のことで、自分が 神宮周辺の土地を大切にしたいと思っていることに気づきました。それは天皇や天皇制や神道や神社といった個々の存在を越えて、まさに そういうものを存在たらしめている「場所」そのもの に対するもの。
平たく言うなら、都内で私がもっとも好きな空間が 表参道から神宮周辺にかけての土地であり、その土地が 好ましくない方向へ変わってほしくない、より良くなってほしい、という思いです。
コンペの最優秀案がつくられるなら 間違いなく (私が感じている)あの一帯の空間の心地よさは激減してしまうでしょう。
昨年の12月12日に行なわれたシンポジウム「神宮の森・これまでとこれからの100年ー鎮座百年記念・第二次明治神宮境内総合調査からー」も、急遽 補助椅子が用意されるなど 多くの人が訪れ、神宮の森に対する関心の高さが伺えました。
私も 神宮の森が大好きです。
槇さんが論文の中で触れられている『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』を読んで、あの原生林のような内苑の森が 人の手によって一からつくられたことに思いを馳せ、その森と合わせて外苑がつくられ 両者によって神宮というひとつの場所であることを考えると、そもそも外苑を新国立競技場の候補地にしておいて良いのか ということさえも含めて 検討したくなります。
10月のイベントで、既存の緑地を結んで 東京に緑の回廊をつくろうとしている動きがあることを知りました。緑の回廊は 地上と地下の水の回廊でもあります。
森という 自然のひとつのまとまりは、人にとって 特に都市に暮らす人にとって、現在自覚されている以上に大切で重要なものではないだろうかと、このところ 強く観じるのですが、その“森という自然”は 森の場所で完結するものではなく、まわりとも関わり 混じり合って 存在するものです。(*森に限ったことではありませんが。。。)
ヒトの存在 ヒトの在りようを考えると、
脳と身体はつながっており
身体とそのまわり つまり環境は つながっており、
ヒトがヒトとして その可能性を開花するには
取り巻く環境の質が大きく関わってきます。
建築や風景や環境は
私たちヒトの身体の一部とも言えます
コンペのサイトの文章ではありませんが まさに
建築とは 「建物」ではなく「コミュニケーション」そのもの
(をつくる行為)なのだと思うのです
そこに生きる“ひとつの自然”としてのヒト と
コミュニケーションするもの
communicattionの語源は ラテン語のcommunis(共通したもの) あるいはcommon(共有物)と言われています。つまり 共通・共有するもの。
建築は まさに その社会に生きる人たちの 存在のコミュニケーションを担うものに他なりません。そして そのコミュニケーションには、いま生きている人だけではなく 過去生きていた人たちも含まれる…、少なくとも 過去生きてきた人たちをないがしろにしないことが 求められるように思えます。
誰かが 変えていく 社会ではなく
みんなで 変わっていく 社会へ…
そのためにも コミュニケーションが必要なのです。
そしてそれは いまから始めることができるのです。
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専門も分野も異なる造営者たちが一つの舞台に集い、
真正面から向き合って理想を闘わせることができたからこそ、
ひとつながら多重な魅力が混然一体となった、
明治神宮という磁場の求心力が形成されたのではなかったか。
本書の冒頭で、
明治神宮の「伝統」とは創る伝統にこそあるのではないかと私論を述べたのは
このことである。
ここで筆者がいう伝統の創造とは、
過去に遡って装飾しようとすることではなく、
むしろ今に向き合うことで未来のための拠り所を築こうとする営為のことだ。
画家寺崎武男は、国史絵画の創造を夢見てヴェネツィアから
「世界的な日本を描こうよ」と声をあげた。
同時代と次代に向かって発せられたそのような造営者たちの真摯な呼びかけは、
「未来」を生きる私たちに確かに届いたと筆者は信じるものである。
(『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』P.316より)
【参考まで】
*槇文彦さんの論文「それでも我々は主張し続ける」(JIA MAGAZINE 301)
*2020-TOKYO 神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会
昨夜行なわれたこの会による公開勉強会で 建築学科の学生が発表した案の一つが とても素晴らしかったと、家人が話してくれました。
(個人的には、最終審査候補作品の中では あらたな森をつくる「作品26」が気に入っています。)
コンペには新しい才能を発掘し育てる役割もあるように思うのです。