日本時間の本日、
2020年の夏季オリンピックが東京で開催されることが決まりました。
関係者の方々の努力とご苦労は 計り知れないものがあったと想像します。
様々な批判や反発を招いた 先日の東京招致委員会理事長の発言。
その反応は当然のものであり 為されて当然のことですが、
責任ある地位の方が 過失からそのような軽率な発言をするだろうかと 考えてみることも必要なのかもしれません。
それは これまでマスコミで「失言」として取り上げれ叩かれてきた発言(の幾つか)についても 言えるような気がします。
世の中には 目的を語ることによってその目的を達成できなくなるがために 語らずにものごとを進めていかなければならないことが 存在します。それは 時代や世間に叩かれ批判され誤解されたとしても 果たすべき役割というものがあることを意味します。
大きな流れの中で観れば 2020年のオリンピックが東京で開かれるという今回の決定は、日本という枠を超えて 望まれているシナリオの一つであった と捉えることができるようです。
しかし そのシナリオの内実をどのようなものにするのかは、偏(ひとえ)に 開催地である日本にかかっています。そしてそれは、敷かれたシナリオに従って生きるのか それらを超えて共に創って生きていくのか、の分かれ道でもあります。
オリンピックというものが その運営を含めてどのようなものであるのかを鑑みるなら、オリンピックが象徴しているシステムに対して 2020年までの間に 日本がどう応えるのか、ということを意味しているとも言えるのです。
これまでの 支配のシステムを続けるのか
あらたなよをつくっていくのか
神に僕として奉仕する 閉じられた永遠の循環をこれからも続けていくのか
自律したひととして生きる ひらかれた社会をつくっていくのか
その選択と思考が
日本に暮らすひとりひとりに 求められている、のだと思います。