別のブログに 神話における両義的存在としてのツバメについて 書きましたが、ツバメに限らず 鳥というものは そういう役割を与えられているように思われます。
七十二候は「古代中国で考案された季節を表す方式の一つであり、二十四節気をさらに約5日ずつ3つに分けた期間のこと」(Wikipediaより)で 「各七十二候の名称は 気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になって」います。
その中で 寒露(=10月8日頃)の次候は「雀入大水為蛤」(雀が海に入って蛤になる)であり、立冬(=11月7日頃)の末候は「野鶏入水為蜃」(雉が海に入って大蛤になる)。いずれも 中国の表現ですが 鳥が海に入って蛤になるのです。
自由に空を飛ぶ鳥の姿に わかたれたものをつなぐハタラキを 昔の人たちは観たのでしょうか。
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古代の日本において 各地を遊行する非定住の漂白者たちは、現実の社会で わかたれたものを橋渡す役割を担っていました。具体的には 神と人間 生と死 などです。
漂白の民が担った芸能も そのオオモトは おそらく神事やその祓いだったような気がしますし、芸能自体に 時空を異化/転化させるはたらきがあります。また 死者にかかわることや屠畜も 死という“あちら側”と生の“こちら側”を 行き来するハタラキとして、特殊な能力を持つ人たちが担ってきたようです。そして これは推測でしかありませんが、移動すること自体が 異なるモノコトを橋渡すはたらきであり、日本の地を活性化する役割を担っていたようにも思えるのです。しかしそれが いつからか 畏怖が妬みや恐怖へと変わっていき 蔑まれるようになっていきました。
異なるモノコトをつなぎ橋渡すものであり それゆえに蔑まれてきたもの、ということから ふと浮かんだのが 貨幣です。
お金というものは 物々交換では起こりえなかったモノコトのあいだを 橋渡す役割を果たします。それはまさに異界をつなぐもの。そして、その両義性ゆえに お金は 求められると同時に蔑まれてきたように観じるのです。
ツバメを嫌ったプラトン教団のように純粋化の傾向があるキリスト教において お金を扱うことは長らく卑しいこととされてきました。それゆえに お金にまつわる営みを 漂白の民であるユダヤ教の人たちに 担わせてきたのではないでしょうか。
私は、お金というものは 価値を換算するはかりではない と思っています。
そのモノコトに 注がれるひとの意識の流れであり、「いま」と「みらい」をはしわたすエネルギーのようなものだと 考えています。
融通無碍に動き回れる その移動性・その多義性が ゆがめられることなく人々に受け容れられ 生かされるならば、お金は 計り知れない豊かなハタラキを見せるのではないかと 思っています。
そのためには、まったく無関係に思えるかもしれませんが、移動や行き来すること あるいは変化すること 多義的なことの価値やはたらきを、見直し 評価することが必要なのかもしれません。そしてそれは、定住を原則とした今の社会を 根底から見直し つくりかえることにも つながっていくのかもしれません。