昨日 自然栽培野菜の買い出しの帰りにランチで入ったイタリア料理のお店は、思いがけず 自然派ワインのみを扱っているところでした。イタリアのものを主に 常時60本は揃っているとのこと。洗面所に置いてあったいくつかのカードの中に 私の地元で自然派ワインといえば必ず名前が挙がる酒屋さんの名刺がありました。前菜で出されたお野菜の瑞々しさが美味しくて 尋ねてみると、地元の自然農法の農家さんのものを使っており、魚は直接漁港まで仕入れに行っているのだそうです。
まだ自然栽培野菜がほとんど流通していなかった数年前 大阪の自然食品店の自然栽培入荷メールに登録して以来 そのまま現在に至っているのですが、ほぼ毎日届く入荷メールに記される作り手さんの名前に この1年 新しい方たちが増えている印象があります。
ある雑誌で 前号は私の住む地域が 最新号は自然派の食材が特集されていました。
その二冊だけを見ても 数年前とは比べ物にならないぐらい 自然に即してつくられた野菜やワインやそれらを使う飲食店が急激に増えているのが分かります。
今月の初めに行なわれた、自然栽培のベテラン農家さんと 山地酪農の代表的存在である酪農家さんと 森と海をつなぐ活動をしている牡蠣の養殖漁業家さんを招いたイベントは、大学の講堂が満席となるほどの盛況ぶり。そのとき 酪農家さんの牧場で研修生として働いている若者達が壇上にあがって 将来の夢を語ってくれるのを聴きながら、以前 その酪農家の方から聴いた「地域に密着した山地酪農の牧場と小さなミルクプラント」という未来像が ゆっくりではあるものの 少しずつ形になり始めている 確かな一歩を感じました。そして 前掲の雑誌の最新号で、通年24時間放牧まではいかないものの 冬期以外は終日放牧している酪農家が出てきていることを知り、その印象をますます強くしたのでした。
昨日 買い出しに行ったマーケットで 生まれて初めて瓢箪を食べました。
小さな青い瓢箪の実。
生でもいけますが、お漬け物やグリルにしたら一層美味しくなりそうです。それは 今年の春に新規就農した作り手さんが育てたもので、まだ 販売するほどの量はつくっていないとのこと。「一年目にしては まずまず(うまくいっている)」と伺い なんだか嬉しくなりました。
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数年前、学生時代から環境問題に関心を持ち続けてきた家人と 「ようやく まともなことがまもとに話せる時代になったね。少なくとも その点に関しては 良い時代になったね」と話したことを 思い出します。
原発のことも
自然環境のことも
つまりは この地球で生きる/生きているということを、まじめに話すことができる時代になりました。そして そういう「まっとうな営み」を当たり前のこととして実践するひとや それを支えるひとが 随分と増えてきました。
自然に即した農や醸造や食は、いのちや自然という「私たち人間がまだ解明できていないハタラキ」を まるごとひとつの仕組として活かしたもの、と言うこともできそうです。また 自らのいのちも そのトータルな「ひとつ」のなかにあることを自覚している営み、とも言えるかもしれません。
全体の調和を俯瞰しながら その一部としての自らの営みを捉える視点ーーー
そういう眼に見守られ 育まれた食材だからこそ、いのちに満ち すっと身体になじんで シンプルに美味しく 戴くことが歓びになるのだと思います。また そういう食材がうまれるプロセスにおいては、大地や自然 それに携わる人たちの健やかさを 損なうことはありません。
私が利用している 自然栽培の宅配は、化学物質過敏症の方から「有機野菜も食べられない。自然栽培のものしか食べられない」と切に希望されたことがきっかけで 始まったと聞いています。奇跡のリンゴの木村秋則さんは 妻が農薬で身体を壊したことをきっかけに 無肥料・無農薬の栽培へと進んで行くこととなりました。私は昔からタバコの煙がとても苦手でしたが、子どもの頃は タバコを嫌うことがわがままとか不寛容と言われるような時代でした。お酒は飲めないと思っていたけれど 自然栽培の材料を野生酵母で発酵させたお酒なら おいしく飲めた、という話は 何人ものひとから直接伺っています。天然物の鮎なら食べられる とか 完全に自然放牧された牛の乳なら飲めるというひともいます。
この世の不調和を伝えるシグナルは “炭坑のカナリア”的存在の人によってもたらされることが 少なくありません。しかし、不自然なものを察知するアンテナを持ち それらを受け付けない ある意味正直な身体を持っているひとは、これまで 我がままとか贅沢という言葉で 切り捨てられてきました。そういった外圧に屈して 素晴らしいそれらの感覚を麻痺させて成長したひとも 少なからずいることと思います。
自然栽培には 病害虫という概念はありません。
病気も虫の害も 自然の理に適っていない不自然なモノコトを私たちに伝えるシグナルとして 受け止めます。それは 農という営みに留まらず 人の生き方や社会についても言えること。
不調和を見て見ぬ振りをしたり 仕方ないものとして諦めるのではなく、よりよいものを生み出すための サインとして受け取ることができれば、豊かなモノコトが育まれていくのではないでしょうか。
雨後の筍のように
夏の植物のように
生き生きと伸び広がる 自然な生のかたち。
地域によって 土地によって 人によって ことなる滋味が楽しめる
多様な美(味)しさと楽しさと豊かさを
まずは いのちとストレートに関わる食の分野が先駆けて牽引しているように観じます。
理に適う
理に合う
というよりも
理を活かす
そんなイメージが浮かぶのでした。