この世には 様々な組織がありますが、「組織のカタチは そのまま その場に関わる人たちのエネルギー回路となっている」ことを痛感する出来事が この数年 幾たびかありました。私が知る限り 自律したピア・トゥー・ピア的な組織が存在していない現在において、すべての組織は多かれ少なかれ ひとの意識エネルギーを集め その組織や組織の中心人物のために使われているように観じます。
組織が良いものであるのなら 多くのエネルギーを集約し増幅するシステムは歓迎するべきもの、と思う方がいるかもしれません。正しい目的のためなら 良いのでは、と。
しかし 私は、目的が どんなに素晴らしいことであっても どんなに善きことであっても、他者のエネルギーを集めて使うことは 正しくないと考えます。
肉体と同じく 個々人のエネルギーは個々人の決定権の下に生かされ、流れ行く先は「宇宙の流」(とでも呼ぶべきところ)であるのが自然であり それは結果的に最も効率的で最も合理的な道筋だと 観じているからです。
自然の営みにおいては 与えることが まず先にありきです。
集めるのではなく 与え 流すことで、それが向かい行き着く 宇宙の流れ/宇宙の源/宇宙の水面(みなも)から 新たなる創造のエネルギーが流れてくる、というのが自然のスガタ(素型)なのではないでしょうか。そう捉えるならば 神と人間の契約において誕生した(あるいは契約から派生した)であろうギブ・アンド・テイクという概念は 非常に不自然です。
思うに 本来の契約とは、ギブ・アンド・テイクのような ひとの間の/ひとと神の間の(信用の)交換の概念ではなく、個々の存在が宇宙の理を介して(*人によってはそれを「天の下で」と表現するかもしれません)創る コトの場(事場)・ひとすじの道のようなもの ではないでしょうか。
いま 「ひとつ」ということについて いろいろ考えをめぐらせているところなのですが、個となった(=異なった)「ひとつ」「ひとつ」のモノ・コトは それぞれの領域において 宇宙という“統べる「ひとつ」”に直結していて、個となった「ひとつ」は 宇宙の「ひとつ」(のシステム)を介して 他の個となった「ひとつ」へ関わっている、というのが本来の姿のように観じています。
ですから ひととひとがこの世で協同するカタチもまた、個となった「ひとつ」「ひとつ」が 宇宙の「ひとつ」を介してつながるようにつくられるのが、自然というか理に適っているように観じるのです。そして 幸か不幸か 現時点ではそういうカタチはまだ現わされていません。
たぶん お金というエネルギーのシステムにも 同じことがいえるのだと思います。
ここに記したことは多分に抽象的であることは自覚しています。
これを どのように社会の中で 具体的なモノコトとして 現わしていくのか…。
すべては これから です。
【補記】
私が 未熟な思考をここで記しているのは、“個となる「ひとつ」”と“宇宙の「ひとつ」”のつらなり・相互関係を信じているがゆえの 一つの実験でもあるのです。この数年、直接 言葉を交わさなくとも、私の考えを補完し新たな思考へとコマを進めるような 別のひとの考えに偶然出会う という体験を重ねてきました。身体を持ったひと同士が直接出逢うことでしか生まれないものがあることは 理解していますが、直接逢わずとも 宇宙というシステムを介して お互いが恊働することもできるのだと 観じています。私のブログにコメント欄がないのも 同様の理由からなのです。
果たして私という存在が 個となる「ひとつ」と成れているのかどうかは あやしいですが、少なくとも その方向へ意識のベクトルは向いています。
ついでに言うなら、
数多のものが “ひとつ”のなかで 意図せず連動している
そんな印象が日ごと強くなっている 今日この頃です。
【補記】
2013/07/20 一部本文を修正しました