昨日、福島の原子力発電所事故の直後に 独立行政法人労働安全衛生総合研究所を退職し 福島各地で放射線量の測定を続けて放射線汚染地図を作成している方の お話を伺う機会がありました。日本で原発事故が起こることを以前より想定し チェルノブイリ原発事故による被害の調査を継続的に行っている方でもあります。昨日も ウクライナから戻ったばかりのその足で 夜には新潟へ向かうその前に 勉強会に講師として来て下さったのでした。
誰のための行政なのか
誰のための国家なのか
その方の言葉の背景には そのような問いが貫かれていました。
今夕 大飯原発再稼働の撤回を求めて官邸に 多くの人たちが集まりましたが(*毎週末行われているデモであり 毎日行っている人たちもいます)、それは、原子力発電所の安全性が確保されたとは 国民のほとんどが思えない状況で 再稼働を決定した政府に 突きつけられている問いでもあります。
ときに 人の命を守るための取り組みと 経済性が 相反するものとして対置され、経済的支出や打撃の大きさゆえに 取り組みが制限されたり ということが起こります。しかし それは本来 相反するものではなく、いのちの安全を確保し護る取り組みと相反するような“現在の経済の在り方”が正しくないだけではないでしょうか。
かつて 死刑制度について学生時代の友人と話した時、地方自治体に勤めるその友人は 死刑を廃止し無期懲役にするとその維持費用が膨大になることを挙げて 死刑制度を肯定するような発言をし、私は 公務員である友人がそのような「理屈」を持っていることに ショックを受けたことがあります。人のいのちや 何が正しいのか に想いを馳せ考えることなく、経済性が第一義であるかのような その思考は、友人特有のものではないのでしょう。「経済性」というその尺度は 根本的な見直しがないまま まるで不可侵領域のように神聖化すらされているように 思えることもあります。
しかし 昨夜 その方の話を伺いながら、また 放射線によって汚染された地域に住む人の「避難する権利」を提起する弁護グループの代表の方の話を伺いながら、私たちが所与のものと思い込んでいる経済性という「貨幣/通貨/経済の現在のしくみ」が実は一番の問題ではないだろうか と強く感じたのでした。経世済民というのであれば それは ひとのいのちを主軸に据えるもののはずだからです。
以前のブログに 「与える流れ」としての経済というものを考えるための とりかかりとしての文章を書きましたが、「与える」という やや高みからの物言いよりも 「はぐくむ」という方が 適切なのかもしれません。
“いのちを ひとを はぐくむためのエネルギーとしての通貨”のシステムの構築が いま求められています。