昨日のブログで 場を用意する ということについて触れました。
結論を求めるのではなく 同じ場に在ることで生まれてくるものを大切にする そのありかたについて考えるとき、私には 2010年に訪れたある場所での出来事が思い出されます。
その年の9月の末から10月の初めにかけて 私は初めての中東を訪れていました。
ペトラ遺跡とシナイ山を回ってイスラエルに入り、エルサレムでツアーの仲間と合流するという旅。そのツアーの中で訪れた先の一つに シンディアナ・オブ・ガレリーという フェア・トレードのグループがあります。イスラエルとパレスチナの女性たちが協同で運営しているその場所で、ツアー・メンバーのひとりから「みんなの中で イスラエルとパレスチナの政治的な問題について議論することはあるのですか」という問いが出たとき、対応してくれた女性はこう答えました。
「パレスチナへの支援船がイスラエル軍の攻撃を受けた事件がありましたが、その船にはイスラエル人もいましたし ホロコーストの体験者もいました。そして その事件が起こったその時 私たちは共にここにいました。イスラエルからの訪問者も来ていました。私はそのことが大切だと思うのです」
彼女の あえて的を外したであろうその答えに 満足できない人もいたかもしれません。でも私には 彼女の答えが、問題の解決に向けた一つのベクトルを示しているように思えたのです。
亀裂や対立や分裂している部分に ことさら眼をむけるのではなく、それらを了解しつつ包含し 共に在り 共に自らの痛みとして乗り越えようとする ありかたとして。