昨年末から日経平均株価が一万円を超え、「2013年から日本はバブル期に突入する」と言い続けてきた方の予測通りの展開になってきています。数ヶ月前には 地域によっては不動産のマーケットで売るものがない状況となり 既に“バブルのシナリオ”の幕は切って落とされていたようです。その方の見立てに拠れば、これから 2015年までに行われる日本郵政株式会社の株式上場ころまで 日本の地は バブルの舞台としての役割を果たす可能性が高いとのこと。それが、現在 世界の経済を動かしているパワー(=主体、意識)が 作り上げたシナリオであり、より広い視野で観るなら 善悪を超えた流れ(*必然ということではなく 選択の結果としての流れ ということです)として捉えることもできます。つまり、これからの2年ほどの間に 実体経済から大きく乖離して刷られた世界中のマネーが 日本に流れ込んでくるというのです。現在のシステムのまま そして現状の方向性のままなら、その大量のお金は 日本国内の格差を 更に大きく、おそらくは回復不可能なまで広げてしまうことが予想されます。
その方の見立てが正しいかどうかは 今後の展開で明らかになっていくのでしょうが、もしも正しいとするなら、この “あらゆる方面から求められ用意された状況”を どう生かすのか が、私たち日本人に問われる「とき」が始まった とも言えるのです。具体的には、マネーを 通貨制度を “人を育む創造的なもの”に変えていけるか が、言葉を変えるなら 通貨がアイ(愛)のエネルギーとして機能するシステムをつくることができるか が、問われているのだと思います。
仮に その見立てが正しくなかったとしても、現在の経済の仕組が 変わるべき時期に来ていることは 誰の目にも明らかです。
社会の劇的な変動は 通常 社会の弱者に最もしわ寄せが行くことを考えれば、貨幣経済を否定することは賢明な策とは思えません。とするなら 通貨というものが まったく新たなハタラキを担うものとしてうまれかわることが望ましいのではないでしょうか。
『死の淵を見た男』を 昨日 読み終えました
途中 何度も胸が詰まり
一気に読み進めることができなかった 本でした
そして
読むことができて 本当によかったと
心から思える 本でした
「あの時、ただ何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか、その事実だけを描きたい」と行動を起こされた著者の方 そして その申し出に応じて取材に応じて下さった多くの方々に、また 言うまでもなく あの当時 現場ではたらかれた方々 と いま現在もはたらいて下さっている方々に、
ただ 感謝の気持ちしか ありません
今月の上旬
この本を読み始めた家人から
福島第一原子力発電所が 太平洋戦争末期に陸軍の校訓訓練基地として使われた「磐城陸軍飛行場」の跡地に建てられていることを伝えられた時、何とも言えない 土地が持つ因縁のようなもの あるいは 土地が持つ宿命とでもいうべきようなものを 感じました
だからなのかもしれませんが
本を読みながら
被災した原子力発電所で命をかけてはたらいて下さった方たちの姿が
映画『硫黄島からの手紙』で描かれた方たちの姿に重なっていったのでした
何のために
さしだされた
いのち
だったのか
さしだされたいのちを
そのごの
わたしたちは
ほんとうに
いかすことができているのだろうか
いろいろ思い感じることはありますが
言葉にできません
ただ
もうこれからは
このような思いとはたらきをする必要がない世の中にしていきたい
現場が苦しむような世には したくない
と
それだけは
強く心に思うのでした
「原発に反対の人にも、逆に賛成の人にも、あの巨大震災と大津波の中で、「何があったのか」を是非、知っていただきたいと思う。」
という筆者の思いは そのまま 私の思いでもあり
少なくともあの3.11を体験した人には 読んでいただきたいと思う本です
昨日届いたメルマガにリンクされていた
Youtubeの “ブータン国王の国会での演説” の右側にずらりと並ぶ映像の中に
この映像を見つけました
もう既にご存知の方も多いかもしれませんが ご参考までに
私が住む地域に 世界的な“市民工房のネットワーク”の拠点があることを、昨夜 家人が教えてくれました。そういえば少し前 元アキバ少年を自認する家人が やや興奮気味に そういうネットワークや場所があると話していたような記憶があります。
確かに 「個人による自由なものづくりの可能性をひろげるための実験工房」というキャッチフレーズは 魅力的です。
実際にどういう場所なのかを見るために 一度 工房を訪ねてみたいと思う一方、
なにか すっきりしないものが 私の内に横たわっていました。
そして ふたご座流星群が極大だったとされる夜が明けた 今朝。家人とその工房のことを話していたとき、私の中にあった違和感が少しずつ明確になっていきました。
上記の工房と同様に、まちづくりの分野でも あるいは他の分野でも 世界的なネットワーク活動が日本でも展開されており(*これは今に始まったことではありませんが…)、魅力的な内容のものが少なくありません。しかし どの場合においても なにかひっかかりを感じ、それらとは距離を置いてきました。
そのひっかかりとは たぶん (既存の)ネットワークというものに対する違和感なのだと思います。「素晴らしい活動を 世界に広げる」という啓蒙主義的な匂いを そして ひとつの枠に囲い込むような気配を その背後に感じるのでしょう。今朝気づいたこととは、それは一神教そのものである ということでした。ひとつのアイデア・概念を世界に広める という意味において…。それはまた 増殖のシステム/コピーの文化であり、創造性を育むこととは 根本において相容れないような気がするのです。私から見れば 本社ー支社(本部ー支部)という組織やフランチャイズなどの形もまた 一神教のカタであり、少なくとも これからの未来には ふわさしくないものに映ります。また 政党というものも(そしてもしかしたら“政党に基づく議会制民主主義”というものも) 私には古き世のシステムに思えます。
未来においては、決定権と責任を持った個々人が 臨機応変に協力してものごとを行なっていく社会であってほしいと思うのです。個人が組織やシステムに合わせるのではなく、随時 個々人をつなぎわたす仕組やカタチが生まれてほしいと願うのです。現在あるものでいうなら アライアンス(alliance)やチーム(team)というカタチが そのイメージに近いでしょうか。あるいは ミュージシャンや演奏家が 随時ユニットを組むスタイルが 最も近いのかもしれません。
この一神教的なシステム… いえ 一神教が群雄割拠しているとも言える多神教でもそれは同じことで 結局は「神のシステム」ということなのでしょう… 神のシステムは、提供する側の都合や論理が優先する 財やサービスの在り方にも反映されています。財やサービスなど社会の富は 個々人をベースに提供されるのが 本来の姿だと思うのですが…。
現在においてはコンピュータ関連の財やサービスがまさにそれで、使い勝手の悪さは言うまでもなく 使っている時にフリーズすることがあるような“不良製品”を 商品として販売しているのは、非常に不思議な現象です。
もちろん 技術が追いついていない という側面もあるのでしょう。
ひとの意識が成熟していない という側面もあるのでしょう。
あらたな世の 人と人との恊働のカタチがどういうものなのか、具体的な姿は まだ見えていません。ただ これまでのものの捉え方を超えなければならない ということだけは わかります。これまでのカタチや概念から抜け出して 自由にならなければ あらたなものは見えてこない ということも。つまりは 過去はもとより周りを見回しても 仕方がない、のかもしれません。
そんなことを考えていたら、「12月3日に ローマ法王ベネディクト16世が 世界政府と新世界秩序の設立を求めるスピーチをした」という記事を目にしました。
この6月にはヴァチカンのコンピュータ・システムにアクセスできる人物がヴァチカンから失踪した というニュースもあり、“失踪”は 死亡を意味することもありますが、いよいよ これまでの世が 神のシステムであったことが 誰の目にも明らかになってくるような気がします。
これまでの神に替わって 神の意識を脱した「ひと」が あらたなよのしくみをつくるときがきた ということなのでしょうか。
私には 来年の出雲と伊勢で行なわれる式年遷宮が その宣言の儀であるように思えるのです。もしそうであるならば、年が改まるまでの間に(*人によって「新年」の時期は様々でしょうが 遅くとも4月には どなたにも新年が来ていることと思います) 人は 神から卒業しなければならない ということになりますね。
来る2012年12月21日という日に対して 心穏やかでない方たちもおられるようですが、もしかしたら マヤ暦が意味するところは 神の世界の終わりであり、ひとのよの始まり なのかもしれません。
【コメント】
マヤ暦に関して 世界の終末を信じているように思われる人 また それを待ち望んでいるように思われる人 あるいは その時に他の惑星や宇宙から関与があると思っている人 など様々な方がいるようです。でも いずれも 神のシステムの思考パターンであり、自分以外の何ものかに自分の生を委ねた姿ではないでしょうか。
【コメント】(2012/12/17)
NASAが12月22日に発表予定だったとされる映像「Why the World Didin't End Yesterday」が予定より10日早く公開されたようです。