カナダのユーコン準州に住んでいる 知り合いのカメラマンが、この連休 帰国して京都で写真展を開きます。先ほど訪れた彼のブログで 改めて見た個展のタイトルは 「Northern Life 極北の生命 ーWILD SHEEP COUNTRYー」。
“生命” という文字に反応し、わたしが 彼の写真のなにに惹かれるかの理由が わかったような気がしました。そして、過去記した文章で 自身のブログにアップしたいと思いつつ未だできていないものの中から いのちに関するものを アップしておきたくなりました。
ということで 今年の2月6日に書いた文章を 以下 転載します。
畠山重篤さんの講演をきっかけに 美智子皇后に 興味を持ち、図書館で借りてきた『皇后宮(きさいのみや)美智子さま 祈りの御歌(みうた)』。
手の赴くまま開いたページには 次のように記されていました。(P.63)
ネットワーク
という 言葉は
宇宙の事象(=コト場)をかたどり あらわすには
適切でないのかもしれません
network
網のようにつくられたもの
網のように 絡み合い 何かを捕獲するものではなく
もっと自然な
流れ のようなもの
ではないかと
これから つくるべきものは
人と人のネットワークではなく
人の意識やエネルギーの流れ ではないかと
つながり つなげる ものではなく
直接つながりを持たない それぞれの流れが
共鳴しあうことで
電磁波がエネルギーを伝えるがごとく
音が媒質の振動で伝わるがごとく
放射と重力
圧縮力と張力 として
はかりごとを超えて
おのづから
つくられてゆくものがあるのではないか と
その 宇宙の理(システム/デザイン/デフォルト) をどのように見つけ
それを どうデザインしてゆくか…
【コメント】
しかし 現時点での知見では
宇宙は階層構造になっていて
銀河同士は 立体的な網の目状の「大規模構造」になっているのですよね。
でも その構造をつくっているのは ダーク・マター。銀河同士がつながっている というよりは ダーク・マターとの相互作用で網の目状のネットワークのように見えている 結果的にネットワークされている ということができるのかもしれません。
昨年の秋から年末にかけて いわゆるビオ・ワインと呼ばれるワインを味わう機会に恵まれました。「ビオワインにはビオロジック・ワインとヴィオディナミ・ワインに分類できる」と書いてあるサイトもありますが、簡単にいえば 自然環境に配慮し その恩恵を最大限に生かし 農薬と化学肥料を用いず育てたブドウを 天然酵母によって醸造させたもの。当然ながら味は様々ですが 個人的には 概して優しくこまやかな“味わい”と“つくり”を感じます。最も分かりやすいのは 身体への負担が少ないということでしょうか。どんなお酒も飲み過ぎると「頭にきます」(*怒りたくなる ということではなく、頭が痛くなる ということです)。でもビオワインはいくら飲んでも(*まあ アルコール分解酵素の多寡や個人によってその反応は違うのでしょうが)意識はクリアで 自分の適量を超した場合は翌日に身体(*胴体という意味です。肝臓と胃腸だと思われます)へ疲れとしてだけ現われるのでした。ちゃんと作られた発酵飲料を適量飲んだ翌日は 胃腸の調子が良かったりもします。通常のワインは飲めないけれど ビオなら飲めるという方もいるほどですし、ビオワインによってワインデビューしたことをきっかけに どんどんご自身を解放されている年配の方にも出逢いました。「おいしいお酒とおいしい食事は 意識を引き上げてくれますね」とお話したことを思い出します。
ただ どんな世界も あるカテゴリーの言葉がうまれると、本質の装いとしてのラベルであるはずのその呼称が 本質のように振る舞い始め、農薬と化学肥料は使っていないけれど 例えば「自然環境に配慮しその恩恵を生かす」という その呼称が現わしていたはずの“本来のベクトル”を失ったものが 作られるということが起こってきたりします(*精神性を失ったビオワイン とでも言いましょうか…。「農薬や(化学)肥料を使わないスタイル」は結果であるのですが 自然と向き合うことなくそのスタイルだけを真似ている方もいるようです)。そういう現状があるため あるインポーターさんは 真っ当なビオ・ワインをつくっている方たちのワインを ビオ・ワインという名称で括るのを良しとせず、そういう生産者さんたちを招いたイベントで 彼らのワインを「自由なワイン」と名づけて紹介していました。
物事に真摯に取り組む方は 言葉や表現にも敏感なのでしょうか、そんなワインの作り手の一人は 「ワインをつくる」という表現がしっくりこない とおっしゃっていました。ワインをつくるのは 葡萄の木であり 太陽であり水であり土であり風であり 微生物であり 「私の仕事は いいブドウを運ぶだけ。水を向ける ということです」と。ワインづくりを担うものたちが 最大限の力を発揮できるように場を整えるのが仕事である と言っているかのようでした。それは 自然栽培に携わる方達と同じ認識 あり方です。
名づけることの難しさと大切さを そして 言葉とは思想や価値観をかたどるものであるという事実を “自由なワイン”を通して痛感し また 真摯に考える機会を与えて頂きました。
台風のような強風が吹き荒れた昨日
電車が止まって帰れないかもしれないと思いつつ、
NPO法人「森は海の恋人」の理事長をとつめる畠山重篤さんが 国連森林フォーラム(UNFF)からフォレストヒーローとして表彰されたことを記念した講演会へ 行ってきました。
畠山さんのお名前とその活動の概要は知ってはいましたが
お話を伺うのは初めてのことでした。
【3月18日の続きです】
ただ こういうことを書くと
無償行為を勧めているとか
貨幣経済を否定しているように聞こえるかもしれません。
が 私は 「貨幣制度による “与える流れ”の経済」を構築したい と考えています。
お金がエネルギーであるとするなら
より良い流れに 多く注がれてゆくのが望ましいわけです。
次なる創造を生み出すような 未来への希望につながるような 流れ へと 多く注がれてゆくのが望ましいと考えます。
とするなら、自然や宇宙が与えてくれているもの(*エネルギーや水や空気など)は 基本的にはすべての人に等しく無償で提供されるべきですが、人が創造した“本当の付加価値” については それが望ましいものであればあるほど より多くのエネルギーが流れるべきではないか つまり より多くのお金が払われるべきではないかと 思うのです。少なくとも 清貧 であることは その経済が正しい流れをつくっていないことの指標に思えます。なぜなら 清きものに それを育むエネルギーが注がれていない、つまり 清き行為 清きハタラキを その社会が評価していない ことを示しているに他ならないからです。
ペーパーマネーという言葉が 現在の経済システムを揶揄するニュアンスを持って使われることがありますが、ペーパーマネー… 紙幣とは 紙の幣と書きます。
幣とは 神への捧げものを意味します。
そんな素晴らしい言葉をお金に与えながら 私たちはかつて一度も 紙幣を紙幣たるものとして 貨幣を貨幣たるものとして 用いたことがないのではないでしょうか。
人の神性…人の素晴らしい質やハタラキに捧げるもの として 紙幣・貨幣を用いるなら 清貧という概念は生まれようがありません。
だからといって
お金の見返りなく与える行為を 否定しているわけではありません。
自らの意志として 本当の意味でのボランティアとして行われるハタラキは
活動としての継続性はないかもしれませんが
人の魂の最も美しい部分を現わし 与えていると思うからです。
ただ 人のやさしさや弱さを利用して「ボランティア」を強要する という
矛盾した状況が現実にはあり(*特に閉じられた人間集団においては
事実上選択肢がない環境が用意されたりします)、
それがひいては
お金をもらうことが悪 という歪んだ認識をつくる元になっていたりもします。
見返りを求めることなく
人の素晴らしさに
人の創造性に
それをより育むものとして
そして 未来へと受け継がれてゆくものとして
(それは「祈り」と言うことができるのかもしれません)
私たちの意識/意志のエネルギーを与え 流してゆく そのシステムを
どう構築してゆけばいいのでしょう。
与える行為としての「贈与」も また それが支配の道具となることを考えるなら、
貨幣経済の問題は 貨幣というバーチャルなものを介在していることに由来するのではなく 本質的には 人の意識の問題です。それはつまり ひとりひとりが 自らの内面を観ることなくしては 本当の意味での「与える経済」は実現しない ということだと思うのです。