感染症医の高山義浩さんの投稿記事『イベントにおける感染対策 その特性に応じた考え方』に 次のような箇所がありました。
感染対策のゴールを明確にすることが大切です。防ぐことを目標としながら、防げるだけの対策をしていなければ、それはむしろ危険です。現実的な目標をかかげ、それゆえにリスクを直視すべきです。
たとえば、沖縄県では観光を再開しますが、ウイルスを持ち込ませないことは目標となりません。持ち込まれることはあっても、地域で広げないための対策を取ることになります。観光の従業員は感染することはあるかもしれませんが、地元の人には広げないということが重要です。とくに、沖縄の高齢者を守っていくことを最終防衛ラインとしています。
これは、社会の仕組み・ありよう[≒経済<経世済民]についても 参考になる考え方だと思います。
最終的に守るべきは それぞれの人がそれぞれの命をまっとうすること、でしょうか。その前提として忘れてはならないのは、ヒトは体をもった生き物であり、それぞれのペースがあり、(ヒト以外のものも含めて)他者と感応しあい 作用しあっている、ということ。その場所から “社会の仕組み”という「対策」を考えていく必要があります。
それは、今回の新型ウイルスが私たちの社会に突きつけているものと 様々なところで交錯しているように思えます。それはまた、中村哲さんがアフガニスタンでの水路建設について語った「これは平和運動ではない。医療の延長なんですよ。医療の延長ということは、どれだけの人間が助かるかということ。で、その中で、結果としてですよ、結果として確かにされわれの作業地域、60万人前後の地域では “争い事が少ない” “治安がいい” “麻薬が少ない”ということが言えるわけで。これが平和へのひとつの道であるという主張は、私、したことは少ないと思います。」[*こちらの記事にも引用しています]という言葉にも 繋がってきます。
どんなに素晴らしい言葉・概念であっても 言葉・概念によって固定した状態を目的にした途端に、ヒトのいとなみもまた その状態に固定されてしまい、その目的に向かいやがてはそれを
通り越して動き続ける“生命の流れ・営み”が重要であり 本質であるのに、生命(という動き)から分離した言葉が力を持ち 生を支配してしまいます。わたしたちは、平和を目指しているのではなく 戦争のない状態を目指しているのではなく、「一人一人が自分の命をまっとうする」という“動き”に生きることを望んでいるのだと思います。そういうありようにおいては 戦争はないでしょうし、平和と呼びたくなるような状態になるのでしょうが、それは 人々の生き様の交じり合う様を ある面から捉えた言葉に過ぎないのです。
固定されたものではなく、そこに流れているもの いまここに流れているもの。「カタ」ではなく 自分とつらなる「動き」や「流れ」を感受し そこから物事を捉え考えること。ものごとを「対応関係」や「置き換え」で捉えるのではなく、それぞれが作用しあい 関わり合っている という「つながり」や「つたわり」から捉えること。命を考えるということ 生きるということは そういうことなのだと思います。だからこそ、考えるツールとして非常に有効な言葉を“流れる生きたもの”にしておくためにも ヒトは声の響きを保持した(全)体で言葉を発する必要があります。