私の好きなテレビ番組にNHKの『奇跡のレッスン~世界の最強コーチと子どもたち~』があります。この11月に放送された「合唱編」には 望ましい社会のあり方と重なるような言葉がちりばめられていました。
更に、先日観た「アート編」のダイジェスト版では、一人一人のあり方と そんな一人一人が他の一人一人とともにある素晴らしさについての言葉に、出逢うことができました。
私が観たこのアート編の副題は、「違いはみんなのために」。
広い視野を持った子どもに育つのです。」
他人の真似ではなく そして他人を羨望したり貶めたりするのでもなく、他人や世界との関わりの中で自分の枠を広げ それぞれの表現を見つけていく子どもたちの姿が、とても印象的でした。
*
そして同じくNHKの番組である ETV特集『武器ではなく命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~』。医師としてアフガニスタンで活動していた中村さんが 白衣を脱いで取り組んだ水路建設を追ったこの記録映像では、上記の事柄を支える 最も根本的なことが中村さんの口から語られていました。
中村さんたちが水路を建設した地域では かつての砂漠が緑野となり、平和な風景が広がっています。また、IS(イスラム国)が勢力を拡大している地域は 干ばつのひどい地域と重なっていると、中村さんは語ります。
私たちは「平和」という言葉を口にします。「平和のために」何かをしようと考え、何かをしようとします。でも、「平和」とは ある状態を表現した 一種の抽象的な言葉であり概念。その状態をもたらす原動力や出発点を示した言葉ではありません。
「平和とは目的ではなく 結果」という中村さんの言葉が胸に響きます。
いのちを助けること
いのちを生かすこと
いのちを躍動させること
いのちの力や可能性を引き出すこと
それが自立の基礎であり
ひいては責任を担うものとなり
そしてその結果として
自分や他人の可能性や創造性を広げることとなり
私たちが「平和」と呼ぶ状態となり
それぞれが個性を持ってみんなが和することで
うつくしい歌が生まれる…。
当たり前のことだけれど、私たちはつい 達成する先のことに気を取られて、出発点を忘れがちです。
それぞれのいのちが生きる 活きる、ということが全てであって、それがもたらす状態を、人は平和と呼ぶかもしれないし 調和と呼ぶかもしれないし 安心と呼ぶかもしれないけれど、もたらされる状態の呼称よりも それをもたらす出発点のあり様の方こそが重要で、よくよく考え整えるべきものなのだと、気づかされました。
地に足のついていない抽象概念は、大地を汚していきます。
いのちに直結していない抽象概念は、いのちを汚していきます。
平和のためにいのちを奪う という矛盾を、正当なことだと思い込む/思い込みたがる、思考を停止した自立していない人間を作りだしていくのです。
思考を停止するということは、言い換えれば、いのちを停止する 生きることを止めるということ。そうなってしまえば、生きていると思っていても、実のところ 人として 生き物としては、死んでいるのでしょう。
私が 無施肥・無農薬の自然栽培に長年興味を持ち かつ今も興味を持っているのは、土や作物の生命力を引き出そうとするそのあり方に惹かれているのだと思います。
人間は膨大な数の微生物と共生環境をつくっているという視点から 自然栽培や天然菌による発酵食品の良さを理解することもできるけれど、そういう結果をもたらしているのは やはり「いのちを生かし活かそうとする」その出発点なのだと思います。
最後に、再び「合唱編」からの言葉を。
「合唱とは
もっともっと美しい歌になるように
常に高みを目指して
何度も何度もトライするもの。
このトライが 私は大好きです。
できるまでトライし続ける
素晴らしい音楽への
長い道のり。」
【補記】
「描」の字源、『字統』には “〔六書故〕に「描と摹と聲相近し。描は輕くして摹は重し」と、その筆意の異なることをいう。黄庭堅の字は筆力軽妙であるので、描字と称せられた。この字は古い字書にみえず、唐宋以後に用例のみえるものである。”と記されています。