「2色しか知らない人がその2色で描く絵と
100色知っている人がそのうちの2色を選んで描く絵では
同じ2色を使ったとしても まったく違うものになると思うの」
という ある方の言葉を このごろ折に触れ思い出します。
使えるけれど 使わない
できるけど やらない
それは 自らのありようを決める ということです。
仮に放射性物質を完全に処理できる技術を発見できたとすれば
現在の溶融した炉心や廃棄物や瓦礫の問題は解決に向かうわけですが
それは 原子力発電所の危険がゼロになる ということでもあります。
そのとき いま脱原発を主張している方たちは どういう選択をするのでしょうか。
危険だから止める
安全性が確保されていないから止める
というのは とてもまっとうな感覚であり選択です。
物事を判断する上で 必要とされる適切な思考です。
しかし あえてここでは それを前提としながらも
ではもし その危険がなくなったとき どうするのか…
と問うてみたいのです。
それは 危険性を超えて その技術を 私たちの社会がどう位置づけるのか、
もっというなら その技術によって具現しているシステムを 私たちは未来においても選択し続けるのか、という自問となります。
そして今
こんな緊迫した状況にある今だからこそ
二度と経験したくない出来事に遭遇してしまったからこそ、
私たちは 危険性だけに目を奪われることなく
深い痛みとともに
可能な限り広い視野を持ち これから先の長い未来を見据えて
この社会を見直すことが必要ではないかと 思うのです。
私についていうならば
仮に 原子力発電が100%安全なものとなったとしても
これから描く未来に それを採用することはありません。
地下資源 地球の大地を奪って運営する社会が 未来の姿として正しくない と考えるからです。これからの人のありようとして うつくしくない と考えるからです。
その立場からすれば、エネルギーだけでなく 食器や建築といったものも含め 社会のあらゆる構成要素を見直す必要が出てきます。
もちろん 明日からいきなり 地球の大地から何も持ち出さないで運営することは 無理でしょう。しかし 行く先を決めなければ そのための橋渡しのアイデアも技術も 生まれようがありません。
何かに興味を持った時 それに関する情報や体験や気づきが不思議と集まってくる経験をしたことのある方は、少なくないと思います。“ワールド・カフェ”で「問い」を大切にするのは 掲げた問いに意識が導かれることを知っているからです。
ですから いま 私たちは、
少なくとも 私たちの社会がもたらした今回の事態(*原発事故だけではなく大震災が与えた大きな被害も)に日々直面しなくてすむ私のような方たちは、
できるか できないか ではなく
どうしたいのか
どう生きたいのか
を考え 決めることが 必要ではないだろうか、と思うのです。
もしかしたら そのことによって間接的に多少なりとも問題解決に向けた動きをサポートできるかもしれません。
だれかが 決めてくれるのを待つのではなく
だれかが そう言ったからではなく
自分が決める のです