どこまでたどり着けるか分かりませんが、「まつりごと」というものについて 試行錯誤してみたいと思います。
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ここで言う「まつりごと」とは、バランスをとる、動的平衡、というようなものです。私たちの存在は 知覚できない領域も含めた“全体”におけるバランス、まつり[=間衡り]に依拠していると思われますが、現実問題として私たちが触れられ取り扱えるのは、(不可知の領域に明け渡している実感も含めて)知覚できる領域です。それは自ずから、いずれどこかで行き詰まる可能性が高いことを意味していますが、限定された世界に生きる私たちは 行き詰まったり行き詰まりを感じるまで、その時々の知覚とそれに基づく思考の限りを尽くして進んでいくしかありません。
まずはじめに考えたいのは、ヒトという存在の始まりについてです。
一人のヒトの始まりは、両親から与えられる命です。
命の始まりは、その詳細はまだ解明されていないものの 宇宙の始まりから導かれたものです。
宇宙の始まりは、これもまたまだ解明されていないものの 現時点での理論/仮説によれば 何らかの“私たちがエネルギーと呼ぶもの”の動きに還元されます。
これらのことを 大雑把に一言でまとめるなら、私たちは「与えられる」ところからスタートしている。
私は、この 私たちの存在そのものに作用している流れ、つまり「与えられるところから始まる流れ」というものに立脚して「まつりごと」を考えていきたいと思います。
すべての人が自給自足していたとしても 私たちは(ヒトだけに限定しても)互いのかかわり合いの中に存在しています。ましてや現在のような分業社会においては言うまでもないことです。そして「分業」の実現には、その社会の構成員の食べ物がより少ない人数で効率的に獲得できるようになり 食糧獲得以外に人員を割けるようになる、という前提があります。その前提には、食糧だけではなく住処や衣服の獲得も含まれるでしょう。つまり、「生存への安心[あんじん]」が分業の前提であり、もっというならどんな社会であれそこが出発点だと考えますし、いまこれからの社会を考える際にも そこから出発したいと思うのです。
それは、「与えられる」ところから 命が、命の成長が、命の可能性が始まる、ということです。
そのことを現在の社会にうつすなら、社会の構成員は無条件に衣食住に安心できる状況である、ということになります。
では、その状況を 具体的にどのような方法で実現するか---。
貨幣によって必要な財サービスを行き渡らせるシステムを作用している今の社会において、現時点ですぐ思い浮かぶのは、ベーシックインカムという手法ですが、貨幣経済というシステムも含めて 最適な方法かどうかは分かりません。
ただ、(社会システムを維持できるのであれば)踊り場的な意味合いでベーシックインカムを導入する、というのは、妙案かと思われます。